このスレッドにはもう書き込めません

小泉今日子8

[1] 名前:名無しさん :2022/05/03 (火) 12:35:16 No.8263
8263.jpg (494KB)
前スレ 小泉今日子7 https://gakinko.net/bbs2/80nen35/res7839.html
    小泉今日子6 http://gakinko.net/bbs/80nen35/res7331.html
    小泉今日子5 http://gakinko.net/bbs/80nen35/res6872.html
    小泉今日子4 http://gakinko.net/bbs/80nen35/res6358.html
    小泉今日子3 http://gakinko.net/bbs/80nen35/res5760.html
    小泉今日子2 http://gakinko.net/bbs/80nen35/res5136.html
    小泉今日子  http://gakinko.net/bbs/80nen35/res2493.html
の続きです。

スレ画は、DUNKの85年11月号から、ドラマ「おかあさん」の2ページ目です。
この時は19歳で、早生まれなので、もし進学していたら大学2年になる年齢ですが、
若々しいキョンキョンは、セーラー服を着ても、全く違和感がありません。
キョンキョン・スマイルで、満面の笑みを浮かべているので、若さが一層引き立ちます。
[2] 名前:名無しさん :2022/05/03 (火) 12:46:35 No.8264
8264.jpg (356KB)
DUNKの85年12月号から、85年放送のアイドル主演ドラマの、
ドッキリシーンを振り返るコーナーからです。
1位は、中山美穂主演の「夏・体験物語」なので、納得ですが、
2位のキョンキョン主演の、「少女に何が起こったか」は、持ち上げ過ぎだと思います。

[3] 名前:名無しさん :2022/05/03 (火) 12:52:17 No.8265
8265.jpg (455KB)
DUNKの85年12月号の、1ページ目です。
いよいよアイドル時代の代表曲となる「なんてったってアイドル」がリリースされる時の記事です。
その曲が流れるカルディアのCMは、後に録画したテレビ番組を整理してダビングする時に、
偶然発見しました。ラッキーと思いました。

「かわいくニコニコしているだけじゃなくって、見ているみんなをワクワク元気にさせちゃうのが、
 コイズミの思ってるアイドルなのね。」
7月にリリースしたアルバム「Flapper」で、理想のアイドル像を確立したコイズミが、
それをシングルとして代表させたのが、「なんてったってアイドル」だと思います。

でも当時は、また大人が悪ふざけして作ってるな〜としか思わず、
後に歌い継がれていく曲になるとは、思ってもみなかった。と、正直に告白しています。
[4] 名前:名無しさん :2022/05/03 (火) 12:59:15 No.8266
8266.jpg (489KB)
DUNKの85年12月号の、2ページ目です。
「なんてったってアイドル」は、タイトル公募でしたが「なんてったって」を発案しただけで、
50万円もらえた大学生は、得した気分だったでしょう。作詞は秋元康が全面担当です。
「なんてったってアイドル」のリリースを予感させるように、雑誌「活人」が発行されます。
しかし2号で廃刊。まるでコイズミの黒人パフォーマンスのみが、
クローズアップされたような雑誌です。

後にコイズミ伝説の1ページを飾る事になる(DUNKがやり過ぎと言っている)
パフォーマンスの他、上のセミヌードもあり、雑誌スタップの熱い思いに、
「じゃ、いっちょやるか」と答えるコイズミは、正に男前。
10代から現在まで、男前な性格が変わらないのが嬉しいです。

「小泉が目立てば、世の中明るくなる。」時代の一歩先を行っていたコイズミは、
その後のバブルで浮かれた時代を予感していたのかも。
グループアイドルしかいない現代。
コイズミのような、破りなアイドルは、二度と現れないような気がします。
[5] 名前:名無しさん :2022/05/07 (土) 16:17:31 No.8286
8286.jpg (479KB)
DUNKの85年12月号から、代表曲「なんてったってアイドル」の歌詞が載っている
3つ折りピンナップです。
今でも、アイドル賛歌として親しまれているキョンキョンの代表曲ですが、
リリース当時は、代表曲になるとは思わず、
一過性のヒット曲のひとつに過ぎないと思っていたそうです。

秋元康の詞も、「また大人が悪ふざけしてるな。」と思ったそうですが、冷静に考えると、
「私にしか歌えない歌。」だと思い直し、元気一杯歌っていました。
このピンナップのファションも、奇抜なものではなく、可愛い感じです。
[6] 名前:名無しさん :2022/05/07 (土) 16:20:25 No.8287
8287.jpg (334KB)
投稿写真の85年12月号から、素人が撮った写真です。
この後、「走り続けるミス・ヒーロー〜今日子」としてビデオ化されるコンサートの写真です。
(ランドセル姿は、ビデオにはありません。)

もし手が大きく伸びれば、コンサートに来たファンの人たちを、思いっきり抱きしめたくなる。
と、後に小林繁を相手にして語っています。その快感は、歌手を経験してみないと分からない。
役者には味わえない快感でしょう。と小林繁が答えていました。
それほど、歌手とファンが一体になって盛り上げるコンサートだからこそ、
キョンキョンも、こんな大胆ポーズを平気で行っていたと思います。
[7] 名前:名無しさん :2022/05/07 (土) 16:37:46 No.8288
8288.jpg (423KB)
久々に「微笑物語」に戻って、132ページ目です。

デビュー曲から4曲目までのキョンキョンのシングルを担当したのは、
ビクターの高橋隆ディレクターでした。
津久井高校1年の1学期、厚木から毎週末に歌のレッスンで東京に通っていた頃から
担当していたので、実質2年間キョンキョンのディレクターを担当していました。

キョンキョンは、デビュー前の1年間、マネージャーが付かなかったので、
週末に歌のレッスンをした後、スタジオの裏にあるレストランで遅い夕食を食べさせてから、
厚木の家まで送り届けるのも、高橋ディレクターの仕事のひとつだったそうです。
[8] 名前:名無しさん :2022/05/07 (土) 16:42:19 No.8289
8289.jpg (375KB)
「微笑物語」の、133ページ目です。

高橋隆ディレクターは、キョンキョンの前に、石野真子の8枚目のシングル
「春ラ!ラ!ラ!」から、結婚・引退時のシングル「バーニング・ラブ」までの
レコーディング・ディレクターを、担当していました。
同じ事務所の後輩のキョンキョンが、同じビクターからデビューするので、
石野真子の後継的なアイドルに育てたいという、事務所やレコード会社の意向で、
キョンキョンのレコーディング・ディレクター担当になったそうです。
[9] 名前:名無しさん :2022/05/07 (土) 16:49:05 No.8290
8290.jpg (420KB)
「微笑物語」の、134ページ目です。

石野真子のコンサートは、親衛隊がすごく元気だったこともあり、
渋谷公会堂が揺れて壊れるんじゃないかと思うくらい盛り上がる事。
特に、洋楽ヒットのカバーでものすごく盛り上がる事。
やっぱりファンは若いお兄ちゃんだから、ストレスを発散したかった。
と思った高橋ディレクターは、そういう子たちが盛り上がれるのが、
ベースドラムを基調としたダンス・ミュージックだと思いました。
[10] 名前:名無しさん :2022/05/11 (水) 20:13:17 No.8305
8305.jpg (423KB)
「微笑物語」の、135ページ目です。

だから、石野真子のコンサートみたいに盛り上がれる曲を小泉のデビュー曲では作りたかった。
と、高橋ディレクターは語っています。
キョンキョン自身も、1スレ目の99に載せた「微笑物語」の、84ページ目で、
石野真子さんのコンサートを見て感激し、自分のコンサートの目標にしたいと語っています。
3月に放送された、NHKの40周年記念番組でも、「レッツゴーヤング」に初登場した
場面が流れ、「誰からも愛される石野真子さんのようになりたいです。」と語っていました。
[11] 名前:名無しさん :2022/05/11 (水) 20:22:38 No.8306
8306.jpg (299KB)
82年3月21日リリースの1stシングル「私の16才」のジャケットです。

デビュー曲をダンス・ミュージックにしたかった高橋ディレクターが、
何故79年4月に森まどかがリリースした、歌謡曲調の「ねぇ・ねぇ・ねぇ」の
カバーを選んだのか?高橋ディレクターが、かつて森まどかを担当していた事、
メロディは歌謡曲調でも、アレンジがボニーMやドナ・サマー等のミュンヘン系の
ディスコ・サウンドだった事が、理由でした。

確かに「私の16才」イントロは、ボニーMの「怪僧ラスプーチン」に似ています。
アレンジの刻みも似ていて、それはオリジナルの森まどかバージョンも同じでした。
キョンキョンの方がキーが高いから、オケは取り直したそうです。
[12] 名前:名無しさん :2022/05/11 (水) 20:27:06 No.8307
8307.jpg (481KB)
「微笑物語」の、136ページ目です。

「私の16才」から何曲かは、この路線でシングルを出して、
まとめてリミックスを作ろうと思って、「春風の誘惑」までの4枚のシングルは、
全部四つ打ちで計算してあった。と振り返る高橋ディレクター。
そういえば、キョンキョンが「春風の誘惑」を歌う時、シブがき隊がロシア民謡の
踊りを踊っていて、メロディにピッタリハマっていました。
[13] 名前:名無しさん :2022/05/11 (水) 20:33:44 No.8308
8308.jpg (407KB)
「微笑物語」の、139ページ目です。

森まどかの「ねぇ・ねぇ・ねぇ」を、事務所の社長に聞かせ、キョンキョンのデビュー曲として
OKをもらった高橋ディレクターですが、タイトルだけは変わりました。
社長は、「そのままのタイトルじゃなあ。今日子は今16だから16才でいいんじゃないの」
と言い、周囲の人が「私の〜って付ければ」と提案して、タイトルが決まったそうです。
キョンキョン自身は、「歌と、全然、関係ねえなあ」と思いながら、
まだデビュー前の新人なので、黙って聞いているしかなかったそうです。
[14] 名前:名無しさん :2022/05/11 (水) 20:46:03 No.8309
8309.jpg (427KB)
「微笑物語」の、153ページ目です。

高橋ディレクターは、小泉今日子の愛称を、子供時代からのニックネームである
キョンキョンに決定するとともに、小泉のイメージ戦略として、
「微笑少女(びしょうじょ)」というキャッチ・フレーズ、
そして大山和栄が描いた小泉のイラストを、プロモーションに使いました。
なお大山和栄は、2ndアルバム「詩色の季節(うたいろのとき)」のB面5曲を、
ミニストーリー「愛色メッセージ」構成とし、作詞も担当しました。
[15] 名前:名無しさん :2022/05/15 (日) 22:44:32 No.8324
8324.jpg (457KB)
「微笑物語」の、158ページ目です。

キョンキョンのデビュー前、一部の雑誌やラジオ向けのプロモーションで、
森まどかの「ねぇ・ねぇ・ねぇ」の音源が配布されていました。
ヤマハ・ヴォーカルスクール出身の森まどかは、若くして巧さが際立っていた歌手だったので、
「小泉今日子はすごく歌が上手い、というガセが流れて、恥ずかしかった。」
と、後に小泉今日子が述懐しています。
[16] 名前:名無しさん :2022/05/15 (日) 22:46:07 No.8325
8325.jpg (453KB)
「微笑物語」の、166ページ目です。

近年でも、夜ヒットにキョンキョンが初出演した時のVTRが流れる事があり、
CM中に、緊張している表情からキョンキョン・スマイルに変わる部分も流れました。
ただでさえ、初出演の生番組で緊張するのに、15で書いたようなガセが流れていたので、
余計に緊張していた事でしょう。
[17] 名前:名無しさん :2022/05/15 (日) 22:50:22 No.8326
8326.jpg (370KB)
82年3月21日リリースの2ndシングル「素敵なtラブリーボーイ」のジャケットです。
これもカバー曲で、オリジナルは、75年9月10日にリリースされた曲であり、
同じ事務所の先輩である70年代アイドルの林寛子(愛称:カンコ)が歌った、
カンコの代表曲です。カンコは、明るくて勝気な面があるアイドルなのに、
マイナーコードの曲ばかり歌っていました。この曲で、やっとカンコらしい曲を、
歌ったと思いました。もちろん75年当時から、大好きな曲です。

セールスでは、キョンキョン・バージョンが、カンコのオリジナルを上回りましたが、
キョンキョン自身は、寛子さんのオリジナルの方が、
パンチがあってカッコいいと、言っていました。
[18] 名前:名無しさん :2022/05/15 (日) 23:02:56 No.8327
8327.jpg (418KB)
「微笑物語」の、167ページ目です。

2ndシングル「素敵なtラブリーボーイ」のジャケットは、17で載せたビキニ版と、
ワンピース版の2種類が、発売されました。
ジャケットの裏が歌詞カードになっているだけではなく、3つ折りピンナップにも
なっています。(ここにはビキニ版が載っています。)

「ジャケットはインパクトのあるやつにしようと思って、水着にしました。
 今じゃ当たり前だけど、この時代はまだ2タイプ作るのは珍しかったんですよ。」
と、高橋ディレクターは言っています。2タイプはもちろん、
水着・ビキニのジャケット自体が、非常に珍しかった頃です。
ビキニのイメージがある榊原郁恵や石野真子も、レコードジャケットでは着ていません。
[19] 名前:名無しさん :2022/05/15 (日) 23:08:23 No.8328
8328.jpg (436KB)
82年8月21日リリースの1stアルバム「マイファンタジー」の、ジャケット表紙です。
1stシングル「私の16才」、2ndシングル「素敵なラブリーボーイ」が収録されています。

高橋ディレクターは、別のオリジナル曲を2ndシングル用に用意していましたが、
事務所が「素敵なラブリーボーイ」を提案し、こちらが採用されたので、
2曲連続カバー曲になったのは偶然です。ボツになった曲の中で、
「せっかち」は、1stアルバム「マイファンタジー」に収録されました。
[20] 名前:名無しさん :2022/05/20 (金) 04:24:55 No.8344
8344.jpg (475KB)
1stアルバム「マイファンタジー」の、ジャケット裏表紙です。
このアルバムは、オリコン2位まで上昇しました。
過去にアイドルの1stアルバムが、オリコン1位や2位になる事は、天地真理(1位)や
松田聖子(2位)が達成していますが、大ヒットシングルを収録したアルバムでした。

1stシングル「私の16才」が22位、2ndシングル「素敵なtラブリーボーイ」が19位
までしか達していないキョンキョンの1stアルバムが、オリコン2位まで上昇する事は、
当時のアイドルとしては、画期的な出来事でした。
[21] 名前:名無しさん :2022/05/20 (金) 04:28:16 No.8345
8345.jpg (410KB)
「微笑物語」の、168ページ目です。

同期の中森明菜の1stアルバムでも5位であり、キョンキョンの不思議な人気に、
高橋ディレクターは、戸惑ったと思います。
この記録は、2年後に菊池桃子が、1stアルバムで1位を取り、塗り替えました。
[22] 名前:名無しさん :2022/05/20 (金) 04:34:01 No.8346
8346.jpg (321KB)
82年9月21日リリースの3rdシングル「ひとり街角」のジャケットです。
3rdシングルで、シングルA面が初のオリジナル曲になりました。
高橋ディレクターは、シングルでもアルバムでも、小泉のためにものすごくいろんな作曲家から
曲を集めて、そこから曲を絞り込んで決まった時点で歌詞を発注したそうです。

「ひとり街角」も、曲が馬飼野康二に決まってから、三浦徳子に作詞を依頼しました。
作曲家は違っても、曲の方向性は同じものをお願いしていました。
ちなみに、採用されなかった曲は、アルバム曲に入れたり、他のアイドルに回したりする事が、
アイドル界ではよくあったそうです。
[23] 名前:名無しさん :2022/05/20 (金) 04:38:22 No.8347
8347.jpg (310KB)
82年12月16日リリースの2ndアアルバ「詩色の季節」の、ジャケット表紙です。
3rdシングル「ひとり街角」が収録されています。
初代の高橋ディレクター、二代目の田村ディレクターとも、当時のスケジュールの
過激なまでの忙しさでは、意見が一致していました。

小泉たちアイドルは、1日に何本ものメディア出演、雑誌の取材、グラビア撮影、
営業(ミニライブ)やコンサートをこなし、その合間の限られた時間でレコーディングを
行っていました。あまりの疲労に、小泉はレコーディングした自分の歌の
プレイバックを聴きながら、寝ていた事もあったそうです。
[24] 名前:名無しさん :2022/05/20 (金) 04:41:24 No.8348
8348.jpg (422KB)
「微笑物語」の、169ページ目です。

多忙さはディレクターも同様で、アイドル1人あたりシングル、アルバムとも
年4枚作るのがノルマでした。高橋ディレクターは、他に伊藤さやかも担当していて、
多いときは、月6枚のシングル、年20枚のアルバムを作っていたそうです。
当時は、ノルマ達成のために、年末にベストアルバムをリリースする事が多かったです。
[25] 名前:名無しさん :2022/05/24 (火) 08:59:31 No.8364
8364.jpg (344KB)
2ndアルバム「詩色の季節」の、ジャケット裏表紙です。
シングル「ひとり街角」について、作曲の馬飼野康二は、高橋ディレクターがマイナー調を
志向していて、この時も「哀愁のある曲を」と依頼されたそうです。
高橋ディレクターは、「素敵なラブリーボーイ」が、僕としてはちょっと変化球だったんで、
「ひとり街角」で、メロディはちょっとマイナー調でも、バックの音は必ず4つ打ち的に
跳ねさせるという、元々の路線に戻った感じがあります。
[26] 名前:名無しさん :2022/05/24 (火) 09:02:33 No.8365
8365.jpg (469KB)
「微笑物語」の、170〜171ページ目です。

やっぱり、どこかウェットな感じというか、明るいけどちょっと哀愁がある、
そういう曲が売れるんですよ。と、持論を展開しています。
バーニングは、郷ひろみや高田みづえのように、哀愁路線を好んでいたので、
高橋ディレクターの考えは、事務所と一致していたと思いますが、私は、キョンキョンが、
無理して(苦しそうに)歌っている感じがしました。「素敵なラブリーボーイ」を、
元気ハツラツに歌うキョンキョンとは、対照的に見えました。
[27] 名前:名無しさん :2022/05/24 (火) 09:07:10 No.8366
8366.jpg (418KB)
「微笑物語」の、172ページ目です。

高橋ディレクターは、シングル「ひとり街角」の曲が決まると、作詞を三浦徳子に依頼します。
当時の三浦徳子は、松田聖子の1st「裸足の季節」〜5th「夏の扉」までの
連続5曲のシングルと、初期のアルバムのほとんどの作詞を担当していた、
波に乗っていた作詞家です。小泉の第一印象を、とてもリラックスしてる女の子。

2年前に松田聖子さんに会った時は、上京したてで少し緊張していた感じでしたが、
キョンキョンはニコニコしていて東京近郊の地元の子という印象でしたね。
と、初対面の印象を語っています。
[28] 名前:名無しさん :2022/05/24 (火) 09:14:44 No.8367
8367.jpg (397KB)
「微笑物語」の、173ページ目です。

高橋ディレクターが、三浦徳子に作詞を依頼する時、「とにかくいたいけな女の子を書いて」
と言いました。ファンの人たちが「キョンキョンを支えてあげなくちゃ、倒れちゃいそう」
って思うところが狙いだったそうです。実際の小泉の性格は、全然違っていたんですけどね。

70年代初期、アイドル歌手が誕生する頃は、ファンが応援し、支えてあげたくなるのが
アイドルで、月刊明星や月刊平凡が、その情報源になっていました。
天地真理・麻丘めぐみ・浅田美代子等が、その系列で、高橋ディレクターが、
キョンキョンの前に担当していた石野真子も、その系列でしょう。
[29] 名前:名無しさん :2022/05/24 (火) 09:21:08 No.8368
8368.jpg (429KB)
「微笑物語」の、174ページ目です。次ページと繋がる風景です。

山口百恵・桜田淳子から、アイドル歌手が低年齢化するとともに、ファンがアイドルの考え方に
共感し、アイドルとファンが一緒に成長していく手法が確立しました。
花の82年年組も、その手法で人気を上昇させて行きます。中でもキョンキョンは、
ファンの一歩先を行くアイドルにまで、進化して行きました。
[30] 名前:名無しさん :2022/05/28 (土) 21:07:16 No.8385
8385.jpg (340KB)
83年2月5日リリースの4thシングル「春風の誘惑」のジャケットです。
このジャケット写真撮影の頃は、まだ短めの聖子ちゃんカットですが、テレビで歌う直前、
いきなりショートカットになり、前事務所の社長がビックリして腰を抜かします。
衣装も聖子ちゃんカットをイメージして作られたので、髪型と衣装がまるで合っていない。
と、後にキョンキョン自身が、当時のVTRを見て、言っていました。

高橋ディレクターは、このジャケット写真、すごく気に入っていました。
本人は「お仕事ですから」と言っていましたが。
[31] 名前:名無しさん :2022/05/28 (土) 21:12:12 No.8386
8386.jpg (341KB)
80年代のベスト盤に載っていた、「春風の誘惑」関連画像です。
4thシングル「春風の誘惑」は、前作「ひとり街角」の延長線上の曲ですが、
作家陣は異なります。作詞は篠原ひとし、作曲は緑一二三。
緑一二三は、当時から珍しい作曲家名だと思っていましたが、案の定、ペンネームでした。
「私の16才」(原曲「ねぇねぇねぇ」)を作曲した、たきのえいじでした。
[32] 名前:名無しさん :2022/05/28 (土) 21:14:50 No.8387
8387.jpg (424KB)
「微笑物語」の、175ページ目です。

82年頃のたきのえいじは、演歌の作家としてブレイクしたので、別な名前にしたそうです。
篠原ひとしは、作詞が終わった後の83年の「ビクターヒット賞」で、
初めてキョンキョンに会い、自分の抱いていた印象と違う感じがしたそうです。
アイドルを演じている頭のいい人だなと思いました。
「本質を見誤っていた」と言っています。
[33] 名前:名無しさん :2022/05/28 (土) 21:17:35 No.8388
8388.jpg (490KB)
「微笑物語」の、176ページ目です。

高橋ディレクターは、この時期の曲(「春風の誘惑」まで)は、
タイトルも歌詞もウェットな感じだし、今の小泉じゃ似合わない。と言っています。
当時、スタジオでの歌入れを見ていて、「たぶん、この曲好きじゃないんだろうな」と
思った高橋ディレクターは、冗談半分で「あんまり好きじゃないんでしょ?」って
話しかけたら、「お仕事ですから」って小泉は言いました。

あの子は「嫌い」とは言わない。「お仕事ですから」って言い方をする。と、
高橋ディレクターは当時を振り返っています。
[34] 名前:名無しさん :2022/05/28 (土) 21:20:37 No.8389
8389.jpg (396KB)
「微笑物語」の、177ページ目です。

高橋ディレクターは、結果的には小泉のスタートはこの4曲で良かった。と言っています。
最初からあんまり奇抜に行っちゃうと飽きられるからと。
戸川純あたりに曲を作ってもらおうかな?と思った事もあるそうですが、
だけど、そこまで行くと事務所やビクターが考えてる方向と全然違うものになってしまう。
やっぱり、「スタ誕」から出てきた子はアイドルど真ん中で行く。という流れが、
当時は根強くあったんですよ。と言っています。
[35] 名前:名無しさん :2022/06/01 (水) 19:24:09 No.8402
8402.jpg (466KB)
「微笑物語」の、178ページ目です。

今となっては、「スタ誕」出身アイドルの上位ベスト4は、中森明菜・山口百恵・
ピンクレディー・小泉今日子で、アイドルど真ん中ではなかったです。
百恵とPLは、既に結果を出していましたが、当時のキョンキョンに、
その2組のような実力を求めても無理なので、アイドルど真ん中にしたのかも知れません。
[36] 名前:名無しさん :2022/06/01 (水) 19:27:40 No.8403
8403.jpg (485KB)
「微笑物語」の、179ページ目です。前ページと繋がる風景です。

4thシングル「春風の誘惑」を最後に、小泉のビクター担当ディレクターは、
高橋から田村充義へと交代しました。5thシングル「まっ赤な女の子」からです。
高橋ディレクターは、小泉がすごいのは、「なり切っちゃう」ところ。と言っています。
それが、この後の田村ディレクターになってから、上手く出ました。

高橋ディレクターの頃も、一生懸命イメージを作ってなりきっていたけど、
田村ディレクターになってからは、もっと曲が本人に近づいていった。と言っています。
でもそれは曲のうえでの話で、普段の小泉の印象は、僕がやっていた時から変わっていない。
ただ、それを表に出してたか出してなかったかの違い。
と高橋ディレクターは、回想しています。
[37] 名前:名無しさん :2022/06/01 (水) 19:30:33 No.8404
8404.jpg (433KB)
「微笑物語」の、180ページ目です。

キョンキョンは、70年代の曲のカバー2曲を含めて、デビューからの4曲すべてが、
70年代歌謡曲のテイストを持ってました。
花の82年組の他のアイドルたちが、次々と80年代に合った新しいアイドル・ポップスを
開拓してブレイクしていく中で、取り残される事なく、伊代・明菜・ちえみに続いて、
「春風の誘惑」で4番目にベスト10入りしたのは、キョンキョンの、
可憐な少女に「なり切っちゃう」才能が大きかったと思います。
[38] 名前:名無しさん :2022/06/01 (水) 19:34:37 No.8405
8405.jpg (342KB)
83年5月5日リリースの5thシングル「まっ赤な女の子」のジャケットです。
元ロカビリー歌手の飯田久彦は、ビクター入社後に岩崎宏美のディレクターとなり、
上司の命令に逆らってピンクレディーをスタ誕でスカウトし、
ディレクターとして、ピンクレディーを大ブレイクへ導いた事で、有名になりました。
邦楽制作部長に昇進した飯田久彦は、スタ誕でキョンキョンもスカウトしています。

その上司・飯田久彦からの突然の指令で、キョンキョンの2代目ディレクターになったのが、
田村充義でした。ビクター入社7年、ディレクター歴3年の若手ディレクターである田村は、
「アイドルの事、あんまり知らないなあ。どうしようかなあ」と、戸惑ったそうです。
[39] 名前:名無しさん :2022/06/01 (水) 19:37:09 No.8406
8406.jpg (373KB)
83年7月5日リリースの3rdアアルバ「Breezing」の、ジャケット表紙です。
4thシングル「春風の誘惑」、5thシングル「まっ赤な女の子」が収録されています。
アナログLPのA面にあたる5曲を<Girl Side>、 B面にあたる5曲を<Lady Side>と
分けていて、<Girl Side>がアップテンポの明るい曲、<Lady Side>はアップテンポでも
マイナーコードの曲で構成されているので、<Girl Side>は田村ディレクターが、
<Lady Side>は高橋ディレクターが集めた曲かも知れません。
[40] 名前:名無しさん :2022/06/05 (日) 20:39:58 No.8420
8420.jpg (80KB)
「微笑物語」の、182ページ目です。

田村ディレクターは、キョンキョンの前に、スペクトラムや山田邦子
(邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)がヒット)を、担当していました。
「僕たちみたいな下っ端ディレクターは、先輩方のアシスタントを務めながら、
自分で担当するのは新しいものか、先輩が忙しく出来ない「おこぼれ」を制作するしかなかった」
と、田村ディレクターは当時を振り返っています。
[41] 名前:名無しさん :2022/06/05 (日) 20:43:19 No.8421
8421.jpg (373KB)
3rdアルバム「Breezing」の、ジャケット裏表紙です。
古風で純情可憐なアイドル路線だったデビュー当初の小泉は、同期の花の82年組の中でも
伸びあぐねた存在になりつつありました。(初めてオリコントップ10入りした
「春風の誘惑」が発売された時点では、ディレクター交代の判断がされていました。)
その時、アイドル未経験とはいえ、新しいもの、人の目を惹き付けるものを
手掛けていた田村のセンスが、上司の飯田久彦の注意を引きました。
[42] 名前:名無しさん :2022/06/05 (日) 20:45:43 No.8422
8422.jpg (73KB)
「微笑物語」の、183ページ目です。

田村が担当ディレクターになる前、山田邦子との仕事で、小泉と初対面をしています。
キョンキョン・伊代・ちえみの他に、山田邦子も出演していた「パリンコ学園No.1」を
作っていたTBSに田村が行って、山田邦子とよく打ち合わせをしていました。
その時、当時のプロモーターの紹介で、小泉と初めて会った田村ディレクター。
「ビクターから出ている新人の子」という認識でした。
[43] 名前:名無しさん :2022/06/05 (日) 20:50:49 No.8423
8423.jpg (278KB)
80年代のベスト盤に載っていた、3rdアルバム「Breezing」の関連画像です。
田村充義は、82年当時は桜田淳子の(最後の)ディレクターも担当していたので、
桜田淳子がゲスト出演するスタ誕の収録に同行しました。
桜田淳子と同じ楽屋に小泉もいました。その時、小泉を取材の人が訪ねてきましたが、
マネージャーが不在で、「今、席を外してまして、〇〇時くらいに戻ります」と、
小泉が自分で対応していました。田村は「しっかりしているなあ」と思ったそうです。
[44] 名前:名無しさん :2022/06/05 (日) 20:54:04 No.8424
8424.jpg (430KB)
「微笑物語」の、184ページ目です。

田村充義の小泉との最初の仕事は、糸井重里に会わせる事でした。
田村は、山田邦子の仕事の関係で、糸井重里の事務所に出入りしていました。
ある時、糸井重里に「今CMをやっているんだけど、誰かいい女の子いない?」と
聞かれました。「日刊アルバイトニュース」のCMで、ブレイクした斉藤慶子の
後釜を探していたそうです。「小泉今日子っていうアイドルを今度担当するので、
彼女を見てもらえませんか?」って紹介して、結局出演する事になりました。
[45] 名前:名無しさん :2022/06/09 (木) 19:36:28 No.8444
8444.jpg (74KB)
「微笑物語」の、189ページ目です。

「日刊アルバイトニュース」は、キョンキョンがジョジ後藤をイメージして、
ショートカットにしてから、初の仕事だったので、視聴者にも「あれ誰?」
みたいな関心を持ってもらえたと思います。と、田村ディレクター。
変わりたいと思っていた小泉。デビュー以来のイメージをどう変えようかと考えていた田村。
二人の思惑がうまく一致して、アイドル小泉今日子の第二幕が開きました。
このCMに出演した時期には、田村ディレクターとしての最初の作品は作り始めていました。
[46] 名前:名無しさん :2022/06/09 (木) 19:39:17 No.8445
8445.jpg (64KB)
「微笑物語」の、190ページ目です。

せっかく変わるんだったら、前任者の引き続きをしただけでは面白くないし、
新しいものを出さないとな。と思った田村ディレクター。
作曲は、筒美京平先生にやってもらえることになったので、作詞家は、
新しい作家がいいなと思って、康珍化さんと秋元康さんに依頼し、
詩先でやってもらって、どっちかいい方をA面にしよう。と考えた田村ディレクター。
[47] 名前:名無しさん :2022/06/09 (木) 19:42:37 No.8446
8446.jpg (424KB)
「微笑物語」の、191ページ目です。

田村ディレクターに変わってからの最初のシングでは、「まっ赤な女の子」という
ヴィジュアル性のあるイメージを提示した、康珍化の作詞が、A面になりました。
康珍化は、「夏にむけてのリリースなので、夏というテーマは外せない。
それなら思いっきりカラフルなビーチソングを書こうと思いました。
ポップな詞を詞先で書くのって意外と難易度高いんです。

タイトルはクレヨン画のイメージでした。子供が好きなので。
「真っ赤な太陽」や「真っ赤なポルシェ」はあるけど、「まっ赤な女の子」なんて
存在しないですよね。でも子供は赤いクレヨン一色で、女の子を書き上げます。
まっ赤な太陽、まっ赤なビキニ、まっ赤なパラソル。カッと暑い語感も含んでいて、
すごく気に入ってました。」と言っています。
[48] 名前:名無しさん :2022/06/09 (木) 19:45:10 No.8447
8447.jpg (431KB)
「微笑物語」の、192ページ目です。

康珍化が作詞した「まっ赤な女の子」に対し、「幼稚園じゃないよ」という小言が
聞こえてきました。確かに「瞬間ウキウキ水蒸気って、だから何なの?」と言われれば、
その通りで、康珍化には内心、懸念もありました。

しかし田村ディレクターは、ニコッとして詞を受け取り、康珍化はホッとしました。
「もし受け取ってくれなかったら、オーソドックスな方向に軌道修正して、
その後の(キョンキョンの)詞を書いていなかったので、感謝しています。」
と、康珍化は述懐しています。
[49] 名前:名無しさん :2022/06/09 (木) 19:48:04 No.8448
8448.jpg (73KB)
「微笑物語」の、193ページ目です。

その歌詞を、キャッチーな新型ポップスへと作り上げた筒美京平は、
詞の3分の1近くをカットしたので、康珍化はすごいショックでした。
ところが、贅肉をザックリと削るような京平先生の添削のおかげで、
どこかキレの悪かった詞が、見事なポップスになりました。
「はー、こうやって言葉を削るのか」と、新人の僕には強烈な実践授業でした。
と、康珍化は言っています。
[50] 名前:名無しさん :2022/06/13 (月) 21:55:13 No.8462
8462.jpg (68KB)
「微笑物語」の、194ページ目です。

筒美京平は、「まっ赤な女の子」のメロディラインに、小泉のひそかな魅力となる
「しゃくり(あげ)」を取り入れました。しゃくりという唱法自体は、
松田聖子を頂点に80年代アイドルの多くが取り入れていました。
しかし、後に「あなたに会えてよかった」で、小泉の歌を完璧にトレースした鈴木祥子は、
小泉のしゃくりについて、「コニー・フランシスのヒーカップ唱法を思わせる
特別な魅力がある」と証言しています。
[51] 名前:名無しさん :2022/06/13 (月) 22:01:42 No.8463
8463.jpg (445KB)
「微笑物語」の、195ページ目です。

「まっ赤な女の子」は、キョンキョンのしゃくりが、最も分かりやすく出ていますね。
88年&#12316;91年のキョンキョンは、声が最も出ていた頃ですが、それでもコンサートで
歌を沢山歌う時は、声の伸びがついて行かなくなると、しゃくりを入れていました。
それがキョンキョンの声の色気に繋がっていたと思います。
キョンキョン本人は、変なクセが付いてしまったと、謙遜していますが。
[52] 名前:名無しさん :2022/06/13 (月) 22:10:55 No.8464
8464.jpg (92KB)
↑51の訂正:88年&#12316;91年→88年〜91年

51に書いたコメントの後半は、何故だかアップ出来ないので、
jpgファイル化して、添付します。
[53] 名前:名無しさん :2022/06/13 (月) 22:15:50 No.8465
8465.jpg (408KB)
「微笑物語」の、196ページ目の上です。

70年代の筒美京平は、アレンジも自分で担当する事が多かったですが、
80年代に入ってからは、若いアレンジャーに任せて、新しい音を入れてもらい、
その分作曲に専念して、作曲数を増やしました。
「まっ赤な女の子」でも、アレンジの基本的な部分だけは筒美京平が作り、
佐久間正英は、筒美の推薦でアレンジを担当しました。

エンジニアの高田英夫は、田村ディレクターがスペクトラムを担当していた時の、
ミキサーです。「まっ赤な女の子」のイントロで流れる「ジリジリ ジリジリー」という
特徴的なヴォコーダー・ボイスは、当時スティックスが「ミスター・ロボット」で
ヴォコーダーを使い、日本でも大ヒットしている事を念頭に入れた、
田村ディテクターのアイディアです。
[54] 名前:名無しさん :2022/06/13 (月) 22:21:52 No.8466
8466.jpg (488KB)
「微笑物語」の、196ページ目の下です。

「まっ赤な女の子」の曲を聴いたキョンキョンは、その場で鼻歌で歌ってくれて、
なんとなくいい印象が残っているんだろうな。と田村ディレクターは思いました。
実際には、小泉の本心は「なんとなくいい印象」どころではなく、
「待ってました!って感じで、嬉しかった」と、
後の田村ディレクターとの対談で、言っています。

「誰に曲を書いて欲しい?」と、小泉に直接意見を聞くような業界人は、
田村ディレクターが初めてでした。「瞬間ウキウキ水蒸気」とは、
決して子供の言葉遊びではなく、突破口から勢いよく吹き出たキョンキョンの未来を
言い表した言葉でした。「まっ赤な女の子」は、「艶姿」になり、「はいから人魚」になり、
「七変化」しながらトップアイドルへの坂を一気に登って行きます。
[55] 名前:名無しさん :2022/06/18 (土) 05:00:00 No.8480
8480.jpg (330KB)
83年7月21日リリースの6thシングル「半分少女」のジャケットです。
笑顔ではないキョンキョンのシングル・ジャケットは、「春風の誘惑」以来の2枚目ですが、
6か月弱の間に、まだ自信がなさそうな表情の「春風の誘惑」から、涼しげな瞳の中に、
目標をしっかり見据えている表情の「半分少女」へ、明らかに成長しています。

「まっ赤な女の子」が出来上がった直後、筒美京平からもう1曲、小泉によさそうな曲があると、
田村ディレクターに提案がありました。「まっ赤な女の子」より、
正統派の歌謡ポップスのメロディで、後に「半分少女」になる曲です。
筒美「こっちの方が、春風の誘惑からの流れとしてはいいんじゃない?」
田村「せっかく変わるんだから新しいやつでやりたいです。」」
と主張し、「まっ赤な女の子」の方を先にリリースしました。
[56] 名前:名無しさん :2022/06/18 (土) 05:02:54 No.8481
8481.jpg (408KB)
83年12月16日リリースの4thアルバム「WHISPER」の、ジャケット表紙です。
このアルバムも、前作「Breezing」と同様、アナログLPのA面にあたる5曲を
<Beginner Class>、B面にあたる5曲を<Middle Class>と分けていて、
<Beginner Class>がアップテンポの明るい曲を中心に、<Middle Class>はアップテンポでも
マイナーコードの曲を中心に構成されています。

しかし、<Beginner Class>にミディアムテンポを2曲、
<Middle Class>にスローテンポを2曲収録し、
キョンキョンの歌に、幅を持たせています。
[57] 名前:名無しさん :2022/06/18 (土) 05:05:58 No.8482
8482.jpg (434KB)
「微笑物語」の、197ページ目です。

「まっ赤な女の子」は、オリコン8位を記録し、キョンキョンにとっても新しいキャラクターを
獲得出来たエポックメイキングなシングルになりましたが、それはあくまでも発売になってからの
話です。次のシングルの製作は、「まっ赤な女の子」の発売の数か月前でした。
結果がまだ出ていないので、田村ディレクターは不安も感じていました。
[58] 名前:名無しさん :2022/06/18 (土) 05:09:16 No.8483
8483.jpg (392KB)
4thアルバム「WHISPER」の、ジャケット裏表紙です。
1枚のシングルがリリースされる頃には、もう一枚のシングルを作ってないといけないし、
同時進行で年に2枚のアルバム曲のレコーディングもしていたので、
1曲1曲の明確なイメージ付けが出来てるわけではありませんでした。
ぐちゃぐちゃな状況の中で、徐々に路線が整っていったというのが現実です。
と、当時を振り返る田村ディレクター。
[59] 名前:名無しさん :2022/06/18 (土) 05:14:30 No.8484
8484.jpg (406KB)
「微笑物語」の、198ページ目です。次ページと繋がる風景です。

「まっ赤な女の子」を発売したら、いい反応で、評価も高かったけれども、
そうじゃない場合も考えておかなければいけなかった。
だから次を早めに作っておこうと、田村ディレクターは考えました。
だから、「まっ赤な女の子」と「半分少女」のリリースのスパンは、2か月半くらいでした。
テレビ局の人に、「なんでこんなにすぐ新曲出したんですか?」って小泉さんが聞かれ、
「私は知りません。この人に聞いて」って、田村ディレクターを指さしました。
[60] 名前:名無しさん :2022/06/22 (水) 15:25:12 No.8499
8499.jpg (279KB)
80年代のベスト盤に載っていた、4thアルバム「WHISPER」の関連画像です。
「半分少女」の作詞は、筒美京平とは60年代からの名コンビである橋本淳が起用されました。
歌詞のコンセプトは、基本的には橋本に委ねられ、「レジャーランドのお土産のような歌。
役に立たない可愛らしいだけのもの」と、橋本の自己評価は厳しいです。

しかし、十代の少女の恋心と不安をみずみずしく描いた歌詞には、
アイドルポップスとしての王道感があり、アイドルとしての状況の急激な変化に
喜びと不安の両方を感じていたキョンキョン自身の心境を言い当てているような歌詞です。
[61] 名前:名無しさん :2022/06/22 (水) 15:27:52 No.8500
8500.jpg (479KB)
「微笑物語」の、199ページ目です。

「半分少女」の歌入れには、橋本もスタジオで立ち会い、当時の小泉の印象を、
「主張を秘めた少女」だったと、しっかり見抜いていました。

オリコンでは「まっ赤な女の子」は8位、「半分少女」は4位。ザ・ベストテンや
ザ・トップテンにも順調に出演が続き、田村ディレクターになってから、
明らかにキョンキョンに風が吹き始めました。
[62] 名前:名無しさん :2022/06/22 (水) 15:30:30 No.8501
8501.jpg (403KB)
「微笑物語」の、200ページ目です。

当時はコピーライターがすごく活躍していた時代で、小泉さんのシングルのタイトルも、
彼女自身についてのキャッチコピーだと思えるところがありました。

なので、イメージをもっとはっきりさせるために、キョンキョンのキャッチコピーに
なるシングルを出し続けました。そのうち先行していた同期や先輩のアイドルさんが、
だんだんヒットが続かなくなっていき、こっちは逆にその路線を続けたことで、
うまくいき始めて、自然と周りとの違いが明確になっていきました。
と、当時を田村ディレクターが振り返っています。
[63] 名前:名無しさん :2022/06/22 (水) 15:34:02 No.8502
8502.jpg (362KB)
83年11月1日リリースの7thシングル「艶姿ナミダ娘」のジャケットです。
田村ディレクターは、ヒットチャートが気になったのは、「渚のはいから人魚」で初めて
1位になった時くらい。と言っています。むしろ当時は、早見優さんの「夏色のナンシー」も
すごくいい曲だし、チャートでも抜けなかったなあと、正直に思ったり、
周りのアイドルさんとの比較を気にしていた。と言っています。

田村ディレクターが担当するようになった頃(83年春)の小泉さんは、女性アイドル
としては5番手か6番手だった。なので、まず3番手にならないといけなかった。
と言っています。
[64] 名前:名無しさん :2022/06/22 (水) 15:40:21 No.8503
8503.jpg (440KB)
「微笑物語」の、201ページ目です。

1番手の聖子さんと2番手の明菜さんは歌唱力では抜けないので、とにかく3番手を
目指したんです。と、田村ディレクターは、当時をふり返っています。

83年春の時点では、上記の他に、3番手が河合奈保子、4番手が柏原芳恵で、
5番手を、キョンキョンとちえみが激しく争い、その後を優と秀美が争っていた頃です。
伊代は、デビュー当時の勢いが無くなり、脱落しかけていました。
[65] 名前:名無しさん :2022/06/23 (木) 01:21:24 No.8507
リクエストお願いします。
「微笑物語」
120ページの水着カラー
164、165ページの画像が見たいです。
[66] 名前:名無しさん :2022/06/23 (木) 15:44:11 No.8508
8508.jpg (494KB)
>>65
抜けていたページのご指摘、ありがとうございます。

これは、「微笑物語」の、120ページ目です。
ペロっと舌を出して、満面の笑みを浮かべている表情が、可愛いですね。

残2枚は、次回から、載せて行きます。
[67] 名前:名無しさん :2022/06/23 (木) 18:31:10 No.8512
早速の対応ありがとうございます。
更新をいつも楽しみにしております。
[68] 名前:名無しさん :2022/06/26 (日) 14:42:56 No.8522
8522.jpg (427KB)
「微笑物語」の、164ページ目です。

田村ディレクターが意識していたのは、キョンキョンのアイドルとしてのスタンスです。
当時の人気番組「欽ドン!良い子悪い子普通の子」の設定を参考にしました。
「良い子」が聖子さん、「悪い子」が明菜さん、そして「普通の子」が小泉さん。
演技でも普通の演技っていうのが難しいように、実は「普通の子」を狙うのが一番難しい。
「普通」って時代に合わせて変わって行く。だから今の「普通」の感覚をうまく
提示しないといけないんです。小泉さんの曲はそこを考えて作って行きました。
[69] 名前:名無しさん :2022/06/26 (日) 14:52:20 No.8523
8523.jpg (446KB)
「微笑物語」の、165ページ目です。

そういう意味では、あまりブレずにやれたんじゃなかな。と田村ディレクターは語っています。
最近のインタビューや、2012年の正月番組でも、小泉自身が、
「聖子さんがいて、明菜ちゃんがいたから、その間を縫うようにして私が生まれた。」と
言っています。

これで、ハリコとしゃんばらにアップした画像の再アップは、今明和にアップしている
残り60枚ぐらい以外は、終わりです。1か月半ほど、このスレを休み、再開時からは、
新規画像を、1回2枚づつ貼って行きます。
[70] 名前:名無しさん :2022/06/26 (日) 16:52:21 No.8525
「微笑物語」の残りは貼ってもらえるのでしょうか。
202ページからラストまで、あと少しお願いします。
[71] 名前:名無しさん :2022/06/27 (月) 15:22:10 No.8527
8527.jpg (494KB)
>>70
再開時からは、「微笑物語」の残りから、貼って行きます。
言葉が足りなかったので、お詫びとして、「微笑物語」の202〜203ページ目です。
満面の笑みを浮かべると、顎がより尖がって見えるのが、キョンキョンならではの魅力です。
[72] 名前:名無しさん :2022/06/27 (月) 17:47:28 No.8531
ありがとうございます。

再開お待ちしてます。
[73] 名前:名無しさん :2022/08/18 (木) 17:42:35 No.8774
8774.jpg (487KB)
「微笑物語」の204〜205ページ目です。

(63・64・68・69で書いた「艶姿ナミダ娘」の続き)
「時代とフィットした普通の子」という感覚は、ポップ・カルチャーが爆発する80年代という
時代の気分と同じ意味だったので、徐々にキョンキョンを普通のスタンスを持ったまま、
最先端に立つポップ・アイドルへと推し進めて行きました。
そして、その変身にあたっての重要なブレーンとして、コピーライター役を担った康珍化は、
2作目となる小泉のシングルに、また変化球を投げ込んで決ました。キーワードは「艶姿」。
[74] 名前:名無しさん :2022/08/18 (木) 17:59:12 No.8775
8775.jpg (435KB)
「微笑物語」の206ページ目です。

80年代早々、「春先小紅」や「め組のひと」等の、和言葉のキャッチコピーが
広告業界で流行り始めて、勝手にジャポニウム・コピーと呼んでいた。という康珍化。
花火大会の後、浴衣姿を女の子たちをよく見かけた康珍化は、女の子が浴衣姿で涙ぐんでたら、
艶っぽいだろうなーと思ったそうです。浴衣が、艶という言葉をたぐり寄せました。
そして、静岡出身の康珍化が、子供の頃から耳に馴染んでいた「旅姿三人男」という歌の
タイトルと、ゴロ合わせして、「艶姿ナミダ娘」というタイトルが誕生したそうです。
[75] 名前:名無しさん :2022/08/22 (月) 21:33:02 No.8791
8791.jpg (426KB)
「微笑物語」の207ページ目です。

「艶姿ナミダ娘」というタイトルを聞いた田村プロデュサーは、「あんみつ姫」第一回が、
その頃、既に放送されていたので、キョンキョンのイメージとの連動を考えて、OKしました。
康珍化は、アップテンポの曲の場合、完全に詞先にしてしまうとメロディの展開を
縛ってしまうので、タイトルと、サビのコピー「艶姿ナミダ娘、色っぽいね」と、
サブコピー「意味深I LOVE YOU」だけを指定して、作曲を依頼します。
[76] 名前:名無しさん :2022/08/22 (月) 21:50:40 No.8792
8792.jpg (409KB)
「微笑物語」の208ページ目です。次ページと繋がる風景です。

田村ディレクター(75では、間違えてプロデュサーと書いたので、訂正)が作曲を
依頼したのは、馬飼野康二。「まっ赤な女の子」のヒットから、筒美京平の連投も
考えられますが、「小泉さんは、まだ歌唱力では戦えなかったので、
アイドルとしていろんな武器をつけないといけない。」と考えた田村ディレクターは、
京平先生だけではなく、他の作家ともチャレンジして、相性が良かったら、
その方ともやって行きたいと思ったそうです。

馬飼野康二は、「ひとり街角」を作曲していますが、その時は、
まだ高橋ディレクター時代だったので、その経緯は田村ディレクターは知りません。
馬飼野先生には、ドーンと真っ直ぐポップなものを作る作家、というイメージがあったそうです。
ちなみに私は、馬飼野康二と言えば、西城秀樹の一連のヒット曲を、連想します。
[77] 名前:名無しさん :2022/08/27 (土) 21:14:03 No.8806
8806.jpg (415KB)
「微笑物語」の209ページ目です。

馬飼野康二は、圧巻なメロを作り、更にイヴのソウルフルなバッキングコーラスも加わって、
やり過ぎかなと心配していたタイトルも、すっかり霞んでしまった。という康珍化。
馬飼野康二は、歌入れした作品を聞いて、小泉今日子の持つ表現力が素晴らしく、
感激したそうです。10年ぐらい前に、「僕らの音楽」という番組で、平井堅と共演した
小泉今日子は、平井堅が「艶姿ナミダ娘」をカバーしたと聞き、メロディが忙しい曲だよ。
と言っていました。平井堅は、この曲をカバーして、勉強になる。と答えています。
[78] 名前:名無しさん :2022/08/27 (土) 21:29:55 No.8807
8807.jpg (400KB)
「微笑物語」の210〜213ページ目は、後回しにして、214ページ目(最終ページ)です。

「艶姿ナミダ娘」は、オリコンで自己最高の3位まで上昇し、「ザ・トップテン」では、
初の1位を獲得します。小泉今日子が更にブレイクした実感を得ただけではなく、
「艶姿」というキャッチコピーが、小泉今日子を通して時代の「普通」と同調し、
テレビや雑誌を通じて社会に広がっていく場面に立ち会った体験をした。
と振り返る田村ディレクター。

「今振り返っても、この曲が与えた当時のインパクトはすごく大きかったですね。
 小泉さんの作品としても、「こすればいける」という手応えをつかめたのがこの曲でした。」
と、田村ディレクターは語っています。
[79] 名前:名無しさん :2022/08/31 (水) 19:05:30 No.8821
8821.jpg (170KB)
「微笑物語」の210ページ目です。
[80] 名前:名無しさん :2022/08/31 (水) 19:09:30 No.8822
8822.jpg (213KB)
「微笑物語」の210ページ目に対するコメントを書くと、エラーになるので、
jpggファイル化して、貼ります。
[81] 名前:名無しさん :2022/08/31 (水) 19:39:07 No.8823
8823.jpg (140KB)
「微笑物語」の211ページ目です。プロフィールが書いてあります。
今や、父親も、上の姉も他界したキョンキョン。
先日、「ボクらの時代」というトーク番組に出演した時には、中学時代に両親が離婚し、
キョンキョンは父親と一緒に住んでいる事を、話していました。ある日、家出した友達を、
父親には他の友達の名前を言って、こっそり自分の部屋に泊めたそうです。

捜索願いが出て家出がバレ、家出した友達の両親に頭を下げた父親。
その後、泣きそうな顔になって、キョンキョンが親に嘘をついた事だけを怒る父親。
ちゃんと言ってくれれば、キョンキョンに協力したそうです。
この時キョンキョンは、この父親なら信頼できる。と思ったとの事。
多分、親より友達の方が大事に思えて、親に反抗するのが、反抗期なのでしょう。
キョンキョンも、その頃は、反抗期だったと思います。
[82] 名前:名無しさん :2022/09/04 (日) 21:51:04 No.8837
8837.jpg (155KB)
「微笑物語」の212ページ目です。エピローグの1ページ目です。
当時のアイドル本は、ゴーストライターが書いている事が多いので、この本もそうなのかな?
でも、すべてゴーストライターが書いていたら、こんなにシリメツレツにはならなかったので、
キョンキョンが話した内容を、ゴーストライターが文章化したと思います。
当時のキョンキョンは、本を書けるほど、国語力がなかったはずなので。
[83] 名前:名無しさん :2022/09/04 (日) 22:15:10 No.8838
8838.jpg (161KB)
「微笑物語」の213ページ目です。エピローグの2ページ目です。
キョンキョンが、初めて書いた本は、88年2月2日発行の「人生らしいね」で、
1ページに、2〜3行しかないエッセイでした。それでも、吉見佑子との共著という形に
なりました。キョンキョンが、初めてまともなエッセイ本を出したのは、
97年3月13日発行の「パンダのanan」で、雑誌ananの94年12月〜97年2月まで
連載していたエッセイをまとめた本で、43万部のベストセラーになりました。

この本が好評で、その後8冊の本(エッセイ・対談集・書評集等)を出し、
文筆家としても、高い評価を得るまでになりました。
最近のインタビューでは、身体が自由に動くうちは、女優や歌手活動を続け、
10〜20年後には、文筆活動に専念すると、言っています。
すでに、短編小説の構想はあるそうです。
[84] 名前:名無しさん :2022/09/08 (木) 21:36:22 No.8850
8850.jpg (420KB)
84年1月1日リリースの、あんみつ姫名義のシングル
「クライマックスご一緒に」のジャケットです。
月曜ドラマランド「あんみつ姫」は、3作ありますが、1作目は当時歌っていた
「まっ赤な女の子」を、そのままテーマソングにしていました。
2作目、3作目は、番組のために新曲を作りたいという田村ディレクターの考えから、
あんみつ姫名義の、スピンオフ的なリリースでした。

そのため、ザ・ベストテンでも、ザ・トップテンでも、ランクインしているのに出演せず、
ザ・トップテンで、「艶姿ナミダ娘」と2曲同時にランクインしている時でも、
小泉今日子ではなく、あんみつ姫が歌っているという理由から、「艶姿ナミダ娘」だけを、
キョンキョンが歌い、「クライマックスご一緒に」は歌いませんでした。
私が知っている限りでは、テレビ出演やコンサートを含めて、レコーディング以外では、
一度も歌っていないシングルだと思います。
[85] 名前:名無しさん :2022/09/08 (木) 21:56:13 No.8851
8851.jpg (496KB)
「微笑物語」の、裏表紙カバーです。

あんみつ姫が歌うのなら、今までのキョンキョンとはちょっと違う事が出来るな。
と考えた田村ディレクターは、当時シブがき隊のレギュラー作家というイメージが強かった
森雪之丞を作詞に、井上大輔を作曲に起用します。井上大輔は、キョンキョンがファンだった
シャネルズの「ランナウェイ」の作曲をしている事も、起用の理由のひとつでした。

普段の作詞は、曲先で行う森雪之丞ですが、この曲では番組制作サイドの承諾が必要だったので、
珍しく歌詞を先に書きました。歌手・小泉今日子が演技をする事から、歌詞の世界でも、
「シーン」とか「クライマックス」といった「ドラマ」的な要素を散りばめました。
「井上大輔さんが、詞先の拙い言葉を巧くまとめて下さった。」と森雪之丞は、言っています。
[86] 名前:名無しさん :2022/09/10 (土) 01:13:30 No.8857
クライマックスご一緒に…

84年春、夏、85年春、86年…
コンサートで歌ってますよー(^^)
[87] 名前:名無しさん :2022/09/12 (月) 20:15:59 No.8866
8866.jpg (385KB)
>>86
教えて頂き、ありがとうございます。コンサート動画、アップされていますね。

84年3月21日リリースの、通算9枚目のシングル「渚のはいから人魚」のジャケットです。
この曲でも作詞を担当した康珍化は、この時期のキョンキョンの魅力を、「スピード感」と、
表現しました。「スピード感」とは、「捕まらない素早さ」であり、康珍化は、
「まっ赤な女の子」でも「ちゃんと捕まえてなきゃ」と、逃げ足の速さを書いています。
ファンがキョンキョンキョンを捕まえたと思った瞬間、もうそこにはいない。

権威や価値観で包もうとしても、笑いながらすり抜ける。6年後のシングル「見逃してくれよ!」
でも、逃げ足の速さは、続いていました。「艶姿ナミダ娘」が大ヒットし、キョンキョンが
イキイキと輝き、「KYON2」という呼称も含めて、他のアイドルたちとの圧倒的なスピード感の
違いが明らかになったので、同じジャポニウム・コピーの流れの中で新曲を作りたい。
と、康珍化は考えました。
[88] 名前:名無しさん :2022/09/12 (月) 20:45:46 No.8867
8867.jpg (488KB)
84年1月5日発行のデラックス近代映画・小泉今日子写真集の、70ページ目です。
前スレ8に載せた、69ぺージ目(68ページ目と書いたのは間違い)と繋がる風景です。

「艶姿ナミダ娘」からリスナーの予測を更に裏切りたい、それが出来たらキョンキョンの
スピードに、更に磨きがかかる。と考えた康珍化ですが、無心で書いていた前作とは違って、
今度はプレッシャーにあがきます。「渚の」と「人魚」をタイトルに入れる事と、
「ズキンドキン」のコピーが出来たところで、いったん暗礁に乗り上げました。

田村ディレクターと作詞家が、お互いにキーワードを出し合って、机の上に並べながら、
いいキーワードを探すのは、田村ディレクターがよく使う方法でした。
今回もその方法を使い、田村ディレクターが、はっぴいえんどの「はいからはぐち」という
歌から、「はいから」を入れて、「渚のはいから人魚」というタイトルが出来ました。
[89] 名前:名無しさん :2022/09/17 (土) 20:34:15 No.8883
8883.jpg (484KB)
↑88の訂正:1スレ目のスレ画と繋がる風景の間違いでした。

デラックス近代映画・小泉今日子写真集の、72〜73ページ目です。

康珍化が、「渚のはいから人魚 キュートなヒップに ズキンドキン」をサビのフレーズに、
田村ディレクターが、サブコピーの「大きくNG 小さくOK」を追加して、
馬飼野康二に作曲を依頼します。馬飼野康二は、この時もかなり弾けたキャッチコピー
だったので、戸惑い、悩みます。結局、底向けに明るく、でもセンチメンタルな部分もある
楽曲に仕上げた。と語っています。
[90] 名前:名無しさん :2022/09/17 (土) 21:11:38 No.8884
8884.jpg (494KB)
デラックス近代映画・小泉今日子写真集の、74ページ目です。

田村ディレクターは、この曲が珍しく歌のメロディ構成が多いんですよ。それまでは、
シンプルにAメロ、Bメロ、Cメロがあってサビという感じだったので、違う路線に
したかった。と語っています。私も、リアルタイムで聞いた時、「艶姿ナミダ娘」以上に、
起伏のあるメロディだな。と思いました。

タイトルに「渚の」と付いているので、同じビクターのピンクレディーの
「渚のシンドバット」を意識したのかと思われるかもしれないけれども、むしろ意識したのは、
曲の構成の方だと言う田村ディレクター。ピンクレディーの曲は、ABCDEFくらいまで
メロディのパターンがあったりするので。と言っています。リアルタイムでは
意識してませんでしたが、ピンクレディーの曲って、メロのパターンが多いですね。

私は、タイトルに「渚の」と付いている点で、2年前の松田聖子の「渚のバルコニー」と、
柏原よしえの「渚のシンデレラ」の、いわゆる「渚対決」を思い出しました。
「渚のシンドバット」は、6月10日発売で、夏のリリース、
「渚対決」は2曲とも4月21日と初夏に向けてのリリースなのに対し、
「渚のはいから人魚」は3月21日と春のリリースで、キョンキョンらしい先取りリリースです。
[91] 名前:名無しさん :2022/09/21 (水) 20:16:15 No.8897
8897.jpg (495KB)
デラックス近代映画・小泉今日子写真集の、75ページ目の上です。
[92] 名前:名無しさん :2022/09/21 (水) 20:17:43 No.8898
8898.jpg (206KB)
91に対するコメントをアップすると、エラーになるので、jpg化して貼ります。
[93] 名前:名無しさん :2022/09/25 (日) 22:08:32 No.8914
8914.jpg (497KB)
デラックス近代映画・小泉今日子写真集の、75ページ目の下です。

「渚のはいから人魚」は、キョンキョン初の両A面シングルで、カップリング曲には、
映画「ドラえもん・のび太の魔界大冒険」のエンディングテーマである「風のマジカル」が、
収録されています。「あんみつ姫」の主題歌「クライマックスご一緒に」と同様、
こうした企画ものでは、田村ディレクターは、ライバルのアイドルたちに重要な作品を
提供している作家たちを、キョンキョンに歌わせています。

「風のマジカル」の作詞は、同じビクターの同期である伊代ちゃんのデビュー曲
「センチメンタル。ジャーニー」を作詞した湯川れい子を起用し、作曲は、
大型アイドルと噂されたこの年の新人・吉川晃司の「モニカ」を作曲したNOBODYを、
起用しています。両A面シングルという事もあって、「風のマジカル」は、
テレビ出演の時も、歌っていました。「半分少女」と同じような曲調でした。
[94] 名前:名無しさん :2022/09/25 (日) 22:26:34 No.8915
8915.jpg (462KB)
デラックス近代映画・小泉今日子写真集の、76ページ目です。

「風のマジカル」は、曲先で制作され、湯川れい子は、「ドラえもん」の主題歌になるかも
しれないという事で、可愛らしさ、無邪気さを意識して作詞しました。
メロディからは、とてもアメリカンな匂いがしたそうです。湯川れい子の目には、
時代の寵児になりつつあったキョンキョンに、「半分少女」がまだ隠れているのが、
見えていました。湯川は、「やっぱり印象が鮮烈なのは、キョンキョンが「KYON2」名義で
 活躍を始めた「ヤマトナデシコ七変化」や、「なんてったってアイドル」あたりから。

 「風のマジカル」の頃は、まだまだ「キス」という言葉にさえも臆病になっていて、
 弾ける事が出来なかったという気がしていた。」というキョンキョンの印象を語っています。
確かに、「艶姿ナミダ娘」「渚のはいから人魚」は、曲のインパクトは絶大ですが、
歌っているキョンキョンは、まだまだ可愛いイメージでした。
(刈り上げカットにするのは、「渚のはいから人魚」を歌っている途中からです。)
[95] 名前:名無しさん :2022/09/29 (木) 22:17:45 No.8931
8931.jpg (403KB)
84年6月21日リリースの10thシングル「迷宮のアンドローラ」のジャケットです。
田村ディレクターが、音楽業界に入って、一緒に仕事がしたいと一番思っていたのが、
筒美京平と、元はっぴいえんどのメンバーでした。
キョンキョン以外の仕事で、元はっぴいえんどの大瀧詠一・細野晴臣・鈴木茂とは
仕事をしていたので、キョンキョンのこのシングルで、ようやく松本隆と仕事が出来ました。

作詞って時代と沿うものなので、松本隆は松田聖子と一緒に時代をつかんでいた。と言う
田村ディレクター。但し、松本隆に頼んでも、松田聖子のイメージと一緒になっちゃうのでは
意味がない。違うものを書いて頂かないといけないと思ったそうです。
[96] 名前:名無しさん :2022/09/29 (木) 22:46:25 No.8932
8932.jpg (365KB)
80年代のベスト盤に載っていた、5thアルバム「Betty」関連画像です。
田村ディレクターが、松本隆・松田聖子のイメージから脱却するきっかけは、
イラストレーター長岡秀星のイラストブック発売とタイアップしたイメージソングの企画を、
キョンキョンで。という依頼が持ち込まれた事でした。

長岡秀星は、この当時、アース・ウィンド&ファイヤーなど海外アーティストのレコード・
ジャケットで、宇宙や神話を題材にした綿密なイラストを手掛けていた世界的な著名人でした。
私も、80年代前半のイラストのレコード・ジャケットといえば、海外では長岡秀星関連の
イラストを、日本では大瀧詠一関連のイラストをイメージしていました。
ちなみに、このイラストブックとイラスト展のPRには、長嶋茂雄も協力していました。

今年、31年ぶりに行ったホールツアーである、40周年記念コンサートツアーで、
小泉は、どうして私のシングルが、こんなにバラエティに富んでいるのか考えると、
映画やドラマの主題歌・CMソングが多いからじゃないか。と言っていました。
その中でも、「迷宮のアンドローラ」の長岡秀星とのタイアップは、異色だったと思います。
[97] 名前:名無しさん :2022/10/04 (火) 00:27:09 No.8952
8952.jpg (376KB)
「迷宮のアンドローラ」の一ヶ月後、84年7月21日リリースの5thアルバム「Betty」の、
ジャケット表紙です。「迷宮のアンドローラ」と同じ、全曲作曲:筒美京平
全曲編曲:船山基紀で構成されたトータルアルバムで、シングル曲は収録されていません。

イラストブック「迷宮のアンドローラ」のような、明確なイメージがあれば、松田聖子とは
ぜんぜん違うものが出来て来るはずだ。と田村ディレクターは確信し、松本隆に作詞を依頼します。
奇しくもこの時期、松本隆は、松田聖子でもシングル「時間の国のアリス」(84年4月)、
アルバム「Tinker Bell」と、SF性の強い作詞を手がけています。松本さんは、
その時点での個人的な嗜好がすごく歌詞に影響する方なので、そういう意味では、
タイミングが良かったのかも知れない。と、後に田村ディレクターは振り返っています。
[98] 名前:名無しさん :2022/10/04 (火) 00:46:18 No.8953
8953.jpg (430KB)
5thアルバム「Betty」の、ジャケット裏表紙です。
松本隆は、小泉今日子の隠れファンだったと自著で書いています。但し、「艶姿ナミダ娘」
「渚のはいから人魚」での言葉のアプローチに対して、はっぴいえんどのパロディ的要素を
松本は感じ取っていたので、自分がそれをやるわけにはいかないって思い、困ったそうです。
結局、サイエンス・フィクション的モチーフにしました。

作曲では、思いがけない展開がありまあした。田村ディレクターが、最初に依頼した作曲家から
あがってきた曲が、良くなかったそうで、筒美京平へあらためて作曲をお願いすると、
「しょうがないねえ。駆け込み寺じゃないんだから。」とイヤミを言われたそうですが、
出来上がった曲は、とても素晴らしい曲でした。
小泉今日子ファンを公言する工藤官九郎も、「この曲が一番すきです。」と言っていますが、
私も、キョンキョンの80年代の曲の中では、一番好きです。
[99] 名前:名無しさん :2022/10/08 (土) 06:09:41 No.8970
8970.jpg (431KB)
84年9月5日リリースのビデオ「Timeless World」のジャケット裏です。
画像は、後にDVD化されたジャケットです。なお表は、次のスレ画にします。
キョンキョン初のこのビデオには、「迷宮のアンドローラ」と、5thアルバム「Betty」からの
5曲のプロモーション・ビデオと、そのメイキングが収録されています。

「迷宮のアンドローラ」のSF性を強くしているのは、アレンジャー船山基紀が導入した
フェアライトCMIなど、当時最新鋭のシンセサイザーや機材の存在でした。
船山基紀は、「迷宮のアンドローラ」が、フェアライトCMIの商業ベースでの
使用法を確立させた作品だ。と思っているそうです。

フェアライトによるスペーシーなサウンドは、5thアルバム「Betty」の中でも、
積極的に使用され、未来的なサウンドが印象的な作品でした。
「迷宮のアンドローラ」と同じく、松本隆が作詞した「天然色のロケット」が、
イメージの連鎖を伝えています。私も、このアルバムの中では、一番好きです。
[100] 名前:名無しさん :2022/10/08 (土) 06:33:09 No.8971
8971.jpg (411KB)
デラックス近代映画・小泉今日子写真集の、77ページ目です。
76ページ目(94)と繋がる風景です。

キャチーで明るいキャラクターをキョンキョンに与えてきた田村ディレクターにとっても、
ドラマティックでナイーブな世界観を持つ「迷宮のアンドローラ」は、印象深いものでした。
「この曲で、それまでの路線と違うことが出来て、すごく良かったなと思っています。
 なので、その後も「そろそろ松本さんの出番かな」と思ったら、作詞をお願いしています。」
と語っています。歌っているキョンキョン自身が、今まで企画性の強い曲ばかりだったので、
やっとまともな曲が来た。と思い、歌手になれた事の喜びを実感したそうです。

このスレッドにはもう書き込めません