酒井法子

[1] 名前:名無しさん :2019/04/12 (金) 20:00:23 No.2515
2515.jpg (371KB)
2000年4月25日発売の、20世紀アイドルスター大全集〜80年代編の、
1ページ目の右上です。プロフィール付きです。
可愛いアイドルの代表のような顔、元気で明るいキャラクター、メジャーコードでポップな曲等、
70〜80年代の正統派アイドルの本流の最後を飾るスーパーアイドルでした。
[2] 名前:名無しさん :2019/04/14 (日) 02:39:03 No.2522
これがのりピー?
全然おもかげないなあ
[3] 名前:名無しさん :2019/04/19 (金) 20:06:57 No.2557
2557.jpg (102KB)
20世紀アイドルスター大全集〜80年代編の、1ページ目の左中央です。
野球かソフトボールをしている姿でしょう。
中学の時にはソフトボール部に所属し、3年の時には、福岡の県大会で準優勝した経験があります。
ポジションはライト。
中学の時にソフトボールでセカンドを守っていたキョンキョンと、どっちが上手いでしょうか。
ちなみに夜ヒットの最終回(後夜祭)では、のりピーとキョンキョンは席が隣同士だったので、
楽しそうに話しながら、放送されるVTRを見ていました。
デビューも年齢も5つ上のキョンキョンと、フランクに話し合えるのは、
トップアイドルとしてのキャラクターが似ているからかも知れません。
[4] 名前:名無しさん :2019/04/25 (木) 01:00:06 No.2588
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20世紀アイドルスター大全集〜80年代編の、1ページ目の左上です。

85年10月のミスヘアコロン・イメージガールコンテストに出場。
グランプリは、同じ事務所の先輩に当たる水谷麻里でしたが、
急遽用意した「BOMB賞」が与えられます。
2006年頃、TOKIOの番組に出演した時、「BOMB賞」の景品を見せられ、
それが何の景品だったか答えられなかった事からも、急遽用意した賞である事が、分かります。
[5] 名前:名無しさん :2019/04/29 (月) 22:31:31 No.2618
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20世紀アイドルスター大全集〜80年代編の、1ページ目の左下です。

本命のグランプリより、準優勝みたいな方が売れる場合って、結構あります。
82年の角川映画大型新人募集では、優勝が渡辺典子で、準優勝が原田知世でした。
84年の第1回東宝シンデレラオーディションでは、優勝が沢口康靖子で、斉藤由貴は最終選考まで。
探せば他にも色々あるでしょう。
[6] 名前:名無しさん :2019/05/05 (日) 23:08:50 No.2655
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20世紀アイドルスター大全集〜80年代編の、1ページ目の右中央です。

グランプリの水谷麻里がレコードデビューして活躍している間、
酒井法子はドラマにレギュラー出演し、モモコクラブの会員にもなります。
そして所属レコード会社ビクターの親会社の宣伝を兼ねて、レコードデビュー前に、
VHDソフト「YUPPIE」を発売。単なるイメージビデオではなく、
SFホラーのストーリー仕立てという画期的な内容でした。
レコードデビュー前に、これだけ様々なプロモーション展開をしたアイドルは、
酒井法子が最初で最後ではないかと思います。
[7] 名前:名無しさん :2019/05/12 (日) 01:19:15 No.2691
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20世紀アイドルスター大全集〜80年代編の、1ページ目の右下です。
これは、88年7月、富士山の8合目に、「日本一標高の高いタレントショップ」として
「のりピーちゃんハウス」を開店し、PRするため、自ら登った時の記念写真かな?
[8] 名前:名無しさん :2019/05/18 (土) 22:16:12 No.2731
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20世紀アイドルスター大全集〜80年代編の、1ページ目の下中央です。
デビュー前のニックネームは「のりっぺ」でしたが、田舎臭い響きがあるためか、
事務所が「のりピー」と付けました。でも、のりピー語の中身自体は、
酒井法子が地元の中学にいた頃から、周りで流行っていたそうです。
[9] 名前:名無しさん :2019/05/26 (日) 22:57:40 No.2771
2771.jpg (491KB)
投稿写真の88年9月号から、素人が撮った写真の1ページ目です。
「のりピー音頭」を、テレビで最初に見た時は、思わず仰け反りそうになりました。
「同期でデビューしたアイドル達が、みんな大人ぽい歌に変わって行く中で、
 私だけ「のりピー音頭」か?」
と、疑問に思いながら歌っていたそうです。
[10] 名前:名無しさん :2019/06/03 (月) 23:52:35 No.2807
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20世紀アイドルスター大全集〜80年代編の、2ページ目の左上です。

85年12月に福岡から上京し、社長宅に入ったのりピー。
岡田有希子が86年4月4日に社長宅からマンションへ引っ越すまで、一緒に暮らしていました。
マンションへ引っ越す際、会社の屋台骨を背負う存在なのだから頑張るように
社長に言われた岡田有希子は、1年後にデビューするのりピーを指差し、
私の代わりなら、ちゃんといるじゃないと言って、4日後にこの世を去ります。
トップアイドルとして大活躍していた岡田有希子だからこそ、
のりピーもトップアイドルになる事を確信していたのでしょう。
[11] 名前:名無しさん :2019/06/14 (金) 23:52:13 No.2863
2863.jpg (134KB)
20世紀アイドルスター大全集〜80年代編の、2ページ目の右の上から2番目です。
ソフトボールは得意でも、テニスは苦手なのか、ポーズが決まっていません。

レコードデビュー前に、様々なプロモーション展開をし、万全の体制でデビューしたのりピー。
87年2月にデビュー曲「男のコになりたい」でいきなりベストテン入りすると、
90年11月リリースの「イヴの卵」まで、4年間に渡り、16曲連続でベストテンに入ります。
その間、1曲も1位になった曲が無いのに、デビューから16曲連続ベストテン入りは、
オリコン史上初めての快挙でした。如何にのりピーが安定した人気を続けていたか、分かります。
(デビュー曲からで無ければ、柏原芳恵の18曲連続ベストテン入りが、1位無しでは最高。)
[12] 名前:名無しさん :2019/06/25 (火) 00:02:33 No.2906
2906.jpg (474KB)
20世紀アイドルスター大全集〜80年代編の、2ページ目の左上です。
このカットでは、サンミュージックの本流って感じのバストですね。
松田聖子・早見優よりは大きく、桜田淳子と同じぐらいかな?
最近入手したBOMBの特集号には、B78cmと書いてあって、
「胸だって、そんなに大きくならなくたっていーんだ。」と言っていました。
[13] 名前:名無しさん :2019/07/06 (土) 01:40:47 No.2954
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投稿写真の88年9月号から、素人が撮った写真の、2ページ目(その1)です。

のりピーの曲では、87年11月25日リリースの4thシングル「夢冒険」から好きになりました。
アイドルファンだけではなく、一般の人にも愛される名曲で、
翌年春の選抜高校野球の入場行進曲にもなりました。
80年代に最もヒットしたのりピーの曲は、88年5月18日リリースの6thシングル
「1億のスマイル」ですが、その前の同年2月24日リリースの5thシングル「GUANBARE」が、
その基礎を築いたと思います。「GUANBARE」は、80年代にはアイドル以外でも珍しい、
自分への応援ソングであり、のりピーの曲の中では一番好きです。
「1億のスマイル」は、その結果をハッピーエンドで描いています。
[14] 名前:名無しさん :2019/07/22 (月) 00:29:13 No.3030
3030.jpg (262KB)
投稿写真の88年9月号から、素人が撮った写真の、2ページ目(その2)です。

自分への応援ソングと言えば、88年1月27日にリリースされた、
浅香唯の9thシングル「Believe Again」もそうでした。
その次のシングルが、浅香唯の代表曲となった「C-Girl」(88年4月20日リリース)。
自分への応援ソングをリリースした時期、80年代の代表曲をリリースした時期とも、
のりピーと共通していました。91年に、「愛は勝つ」「どんなときも」「それが大事」と、
自分への応援ソングが、いずれもミリオンセラーの大ヒットになりますが、
その先駆けとなる曲を、のりピーや浅香唯という正統派アイドルの本流が歌っていた事実。
上手く活かせば、もっと売れていたかも知れませんが、3ヶ月ローテでは難しかったのでしょう。
[15] 名前:名無しさん :2019/08/05 (月) 00:27:56 No.3092
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投稿写真の88年9月号から、素人が撮った写真の、2ページ目(その3)です。

91年からベストテン入りするヒットが出なくなり、
トップアイドルからの転身を余儀なくされたのりピー。
93年には、月9の中でも傑作と言われる「ひとつ屋根の下」の大役のオファーを受けますが、
のりピーのキャラクターとは違い、実際の酒井法子は、繊細で心配性の性格だったので、
このオファーに尻込みしてしまいます。しかしマネージャーから、「台本だけでも読んでみたら」
と言われ、ドラマの素晴らしさに感激の涙を流した法子。一大決心をしてこの役に取り組みました。
[16] 名前:名無しさん :2019/08/21 (水) 23:27:46 No.3166
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20世紀アイドルスター大全集〜80年代編の、2ページ目の左下です。

「ひとつ屋根の下」は、フジテレビ史上最高視聴率をマークする大ヒットとなり、
酒井法子も、アイドル歌手から女優への道を切り開く事に成功しました。
そして95年、初の連ドラ主演作「星の金貨」も、続編が出来るほどの大ヒットとなり、
女優として確固たる地位を築きました。「星の金貨」では、主題歌「蒼いうさぎ」も歌い、
ミリオンセラーとなる大ヒットを記録します。80年代アイドルで、ミリオンセラーを記録したのは、
松田聖子・近藤真彦・小泉今日子・中山美穂、そして酒井法子の5人しかいません。
「蒼いうさぎ」で、デビュー9年目にして紅白歌合戦に初出場。
デビューして3〜4年経っても紅白に出場出来るような大ヒットを出せなければ、
その後の紅白出場は無いのが常識のアイドル界で、その常識を覆す快挙となりました。
[17] 名前:名無しさん :2019/09/08 (日) 00:50:00 No.3247
3247.jpg (137KB)
20世紀アイドルスター大全集〜80年代編の、2ページ目の右の下から2番目です。

西城秀樹が80年代前半から、アジア進出したのが引き金になって、
日本の80年代トップアイドル達が、香港・台湾を中心に、アジアでも人気を得て行きます。
その中で最も活躍したのが、酒井法子です。90年から、台湾を中心に、
香港・中国に積極的に進出し、台湾では日本での人気を上回る人気を得たそうです。
自らの持ち歌を中国語でカバーし、台湾では、連続ドラマの主演もこなしていました。
中山美穂主演の95年の映画「LOVE LETTER」が、韓国で大ヒットする等、
日本では、アイドル冬の時代の90年代に、アジアでは日本のアイドルが大活躍していました。
[18] 名前:名無しさん :2019/09/26 (木) 00:10:03 No.3333
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20世紀アイドルスター大全集〜80年代編の、2ページ目の右下です。

人気女優に転身し、アジアでも絶大な人気を獲得した酒井法子ですが、
2009年、夫(当時)と共に、覚せい剤取締法違反で逮捕されます。
CSで見ていた「星の金貨」の再放送も、途中で打ち切られました。
2012年に芸能界に復帰しますが、アジアでは活躍出来ても、日本では細々としか見かけません。
田舎の町の夏祭りに、無名の演歌歌手達と一緒に出演しているポスターを見て、悲哀を感じました。
研ナオコが、大麻を押収された1977年は、起訴猶予処分だったため、半年で復帰し、
何事もなかったかのように、活躍を続けたのに比べると、雲泥の差です。
覚せい剤と大麻の差か、時代の差か、事務所の損害額の差か? 多分いずれも当てはまるのでしょう。
最近「星の金貨」「続・星の金貨」を見直しましたが、酒井法子の健気で純真そうに見える表情と、
この事件とのギャップが大きかったと思います。興味本位での報道が過熱し、
放送倫理・番組向上機構が警告を行ったほど騒がれたので、復帰後の展開が難しいのでしょう。
[19] 名前:名無しさん :2019/10/13 (日) 01:02:16 No.3420
3420.jpg (112KB)
しゃんばらの最後のスレ(何度も落ちた)に貼った画像は、すべて貼ったので、
ここからは、新規画像を貼って行きます。

これは、DUNKの87年1月号から、プレゼントコーナーです。
レコードデビュー前から、プレゼントコーナーに載るのは、
6で書いたように、様々なプロモーション展開をしていたからでしょう。
[20] 名前:名無しさん :2019/11/03 (日) 23:55:23 No.3508
3508.jpg (496KB)
DUNKの86年12月号です。
レコードデビュー前から、のりピー語を使っている事が分かります。
福岡に住んでいた素人の頃から使っていたそうです。でも、愛称はまだ福岡時代の「のりっぺ」で、
のりピーに変わるのは、レコードデビュー後です。
このデビュー・ビデオディスク(VHD)の「YUPPIE」は、後のテレビ番組で紹介されていました。
エイリアンを倒した後、「エイリアン・ハンターP」と書いてある名刺を、助けた人に渡して
敬礼する姿が、可愛く、微笑ましかったです。寝室を紹介するコーナーでは、事務所の先輩の
聖子からもらった小物を紹介したり、自分の足の指を写したりしていました。
[21] 名前:名無しさん :2019/11/23 (土) 00:27:42 No.3592
3592.jpg (481KB)
GOROの86年12月11日号から、田代まさしとの対談の1ページ目です。
歌手デビュー前に、田代まさしと対談し、しかもリード気味に進めています。
DUNKでは、「のりっぺ」と書いてありましたが、ここでは「いなかっぺみたいでカッコ悪い」
ので、スタッフがのりピーというニックネームを考えた事を話しています。
「所属事務所も生まれも、松田聖子と同じ」と書いてありますが、名前も同じ「法子」
(松田聖子の本名は、蒲池法子)で、地元では「のりっぺ」と言われていたのも同じです。
[22] 名前:名無しさん :2019/12/13 (金) 02:44:43 No.3672
3672.jpg (478KB)
GOROの86年12月11日号から、田代まさしとの対談の2ページ目です。
のりピー語は、酒井法子を売り出すための事務所(サン・ミュージック)の戦略であり、
86年11月に発売されたVHDソフト「YUPPIE」で、初めて紹介されました。
「いちおう「ひ」とか「し」を「ピー」に変えることになってるんです。」
というルールでしたが、ヤッホーがヤッピーになっているので、ルールは柔軟でした。
最初の設定では、酒井法子のニックネームはのりっぺで、酒井法子が自分を書いたイラストを、
のりピーという事になっていましたが、あっという間に酒井法子=のりピーになりました。
[23] 名前:名無しさん :2019/12/31 (火) 01:12:24 No.3752
3752.jpg (490KB)
GOROの86年12月11日号から、田代まさしとの対談の3ページ目です。
「マンモスうれピー」は知っているけど、「マンモスラッチー」は知りませんでした。
映画では昔から3D映画ブームが何度もあったけど、ビデオでは86年に発売された
初めての3D作品群のひとつが「YUPPIE」でした。ビデオディスクは、初めパイオニアが81年に
開発したLD方式に対し、ビクターが83年に開発したVHD方式の方が多数のメーカーに
採用されました。しかし徐々にLD方式のシェアが拡大して行き、86年には逆転。
起死回生を図ったビクターが、3DのVHDディスクを発売しました。「YUPPIE」の他、
「ジョーズ3D」等の当時の3D映画や、「VHDモモコクラブ」もありました。
ジャイアント馬場に、「言ったら踏まれてサバ折りされちゃう」発言を、恐る恐る話す
のりピーは可愛いので許されるけど、田代まさしの発言の方がヤバそうです。
[24] 名前:名無しさん :2020/01/20 (月) 03:16:37 No.3836
3836.jpg (496KB)
BOMBの86年2月号に、B少女倶楽部で取り上げられたを発見しました。その1ページ目です。
ごく普通の少女を取り上げる企画です。85年10月のミスヘアコロン・イメージガールコンテスト
で「BOMB賞」を取り、モモコクラブにも所属が決まった頃です。
酒井法子という文字がなければ、酒井法子だとは分からない表情に、ビックリしました。
この表情を見て、「私の代わりなら、ちゃんといるじゃない」と言った(見抜いた)岡田有希子。
人気アイドルとして活躍しているからこそ、将来は人気アイドルになる事を見抜けるのでしょう。
レコードデビュー前の、レッスンを含めた様々な活動によって、アイドルとしての自覚が芽生え、
表情が磨かれていったと思います。
[25] 名前:名無しさん :2020/02/13 (木) 05:12:57 No.3949
3949.jpg (494KB)
BOMBの86年2月号の、B少女倶楽部の2ページ目です。
生い立ちが簡潔に書いてあります。転校生はイジメられるという話をよく聞きますが、
小学校を3回も転校した法子は、根性があったのでしょう。
中学の時はソフトボール部に入り、その根性で、
県大会準優勝まで行ったチームのレギュラーになりました。
[26] 名前:名無しさん :2020/03/09 (月) 02:41:40 No.4051
4051.jpg (491KB)
BOMBの86年2月号の、B少女倶楽部の3ページ目です。
急遽用意した「BOMB賞」の景品が、オルゴールだった事が分かります。
歌は、音程がはずれちゃうしリズム感も自信がない。と言う法子ですが、
「レッスンして音程をしっかりさせますからね。」と、頑張り屋の一面を見せています。
音程が外れるおニャン子クラブ出身のアイドルが多かったデビュー当時、
レッスンの甲斐があって、音程が外れる事はありませんでした。
このページの顔は、24に載せたカットと比べると、のりピーらしい可愛らしさが少し表れています。
[27] 名前:名無しさん :2020/03/30 (月) 03:25:44 No.4151
4151.jpg (489KB)
BOMBの86年2月号の、B少女倶楽部の4ページ目です。
のりピーと同じく、「23歳くらいで結婚したい。」と言うアイドルが多かった気がします。
当時の結婚適齢期は25歳ぐらいだったので、その前にしたいという事なのか、
それとも23歳までに、アイドルは引退すると思っていたのか。どちらかだと思います。
バレンタインデーが誕生日だからと、しっかりプレゼントを要求する、
ちゃっかりした面を持っているので、人気アイドルに適した性格です。
[28] 名前:名無しさん :2020/04/18 (土) 03:39:50 No.4257
4257.jpg (493KB)
DUNKの87年1月号の、1ページ目です。
アイドルのマイルーム紹介コーナーです。
のりっぺ(レコードデビュー前のこの時点では、まだのりピーと言われていなかった。)は、
サン・ミュージック恒例の社長宅に下宿。高1ののりっぺは、中3の稲垣かおりと8畳間で、
同居していました。箸が転がっても可笑しいと思う年齢の二人の、
デビュー前の楽しい同居生活をレポートしています。
机だけひとつしかないのは、二人とも勉強が苦手で、ゆずり合っちゃった結果です。
「人生どうにかなる」がキャッチフレーズだったのりっぺ。
最近、ようやくテレビにも出演し始めて、「人生どうにかなる」が実現し始めました。
[29] 名前:名無しさん :2020/05/08 (金) 03:09:27 No.4372
4372.jpg (479KB)
DUNKの87年1月号の、2ページ目です。
卒業アルバムは、パソコンで拡大して見ても、判別不能でした。
ゴジラ帽子を被った姿が、2年前と変わりません。
そのひょうきんさを買われて、ビデオディスク(VHD)では、
エイリアン・ハンターPの役を演じていたのでしょう。
[30] 名前:名無しさん :2020/05/26 (火) 01:39:09 No.4482
4482.jpg (496KB)
DUNKの87年2月号の、1ページ目です。
歌手デビュー前にしていた仕事のレポートです。
珍しく暗い顔をしているのは、期末テストの成績が良くなかったからでしょうが、
「楽しい質問、ありがとっ」と答えるあたり、既にアイドルとしてのプロ意識が感じられます。
「このドラマ、内容が暗いから、演技はサラッと自然にやりたいの。」
「ヤンヤン歌うスタジオ」で、暗いドラマがあったとは知りませんでした。
コント風のドラマが多かった印象ですが、最後の方は見ていなかったので、
暗いドラマもあったのでしょう。
[31] 名前:名無しさん :2020/06/24 (水) 05:33:29 No.4623
4623.jpg (488KB)
DUNKの87年2月号の、2ページ目です。
松下葉子って聞いた事がないので、検索したら演歌歌手になっていました。
29に載せた左下のカットの稲垣かおりちゃん(芸名:松下葉子)と、同じ顔で、
検索したレコードジャケットに載っていたので、間違いないでしょう。
アイドル黄金時代大名鑑にも載っていない訳です。
サンミュージックでは、松田聖子の翌年にデビューした杉田愛子も、演歌歌手でした。
のりピーよりヒョーキンだったら、バラドルという手があったかも。
でも時期的に、バラドルが出てきた時期より少し前ですね。
[32] 名前:名無しさん :2020/07/09 (木) 05:35:34 No.4691
4691.jpg (493KB)
BOMBの87年3月号の表紙です。
この号には、表紙・裏表紙・ピンナップ以外に、39ページの巻頭大特集が載っています。
歌手デビューから数日後に、巻頭大特集が組めるのは、
歌手デビュー前に様々なプロモーション展開をしてきたのりピーならではの事でしょう。
[33] 名前:名無しさん :2020/12/01 (火) 00:10:28 No.4795
4795.jpg (489KB)
BOMBの87年3月号の裏表紙です。
裏表紙には、デビューシングル「男の子になりたい」の告知や、イベントの告知も載っています。
のりピーのキャッチフレーズは、「おキャンなレディー」。のりピー語は使っていません。
おしゃべり入りシングルカセットは、当時のブームでしょう。
のりピーの誕生日は、バレンタインデー(2月14日)。ファンクラブ結成式を兼ねた
誕生日会イベントを行っています。
[34] 名前:名無しさん :2020/12/16 (水) 23:18:24 No.4912
4912.jpg (490KB)
BOMBの87年3月号の、9ページ目です。
のりピー語を駆使したマル文字で、プロローグを書いています。
やはり、24〜27で載せたBOMBの86年2月号は、
雑誌に初めて載った記事だという事が分かります。
その1年後にレコードデビューし、BOMBの巻頭大特集にもなって、
「マンモスラッチー」と言っています。
[35] 名前:名無しさん :2021/01/01 (金) 01:50:43 No.5028
5028.jpg (434KB)
BOMBの87年3月号の、10ページ目です。
9ページ目と繋がる、プロローグの右のカットです。
[36] 名前:名無しさん :2021/01/15 (金) 03:54:01 No.5141
5141.jpg (494KB)
BOMBの87年3月号の、1ページ目です。
「よろぴく!」と、最初からのりピー語で始まっています。
[37] 名前:名無しさん :2021/01/31 (日) 01:07:57 No.5264
5264.jpg (485KB)
BOMBの87年3月号の、2〜3ページ目です。
これもワンピース水着です。
浅香唯スレにも書いたけど、85年以降にデビューしたアイドルは、
B級アイドルとおニャン子を除けば、ワンピース水着ばかりで、ビキニを着ていませんね。
[38] 名前:名無しさん :2021/02/14 (日) 17:31:49 No.5391
5391.jpg (494KB)
BOMBの87年3月号の、11ページ目です。
生後4か月の写真を見ると、本当に男の子のような赤ちゃんでした。
デビュー曲のタイトル「男の子になりたい」を歌っていた時より16年も前から、
男の子のようで、幼少時代も、それが続きます。
[39] 名前:名無しさん :2021/03/02 (火) 00:04:30 No.5513
5513.jpg (492KB)
BOMBの87年3月号の、12ページ目です。
「男の子になりたい」どころか、男の子になりきっている幼少期の法子です。
でも、スズメに乾燥剤を食べさせたのは、イタズラではなく、
乾燥剤が宝石みたいにキラキラしていたから、という女の子っぽい発想からでした。
[40] 名前:名無しさん :2021/03/16 (火) 01:27:21 No.5643
5643.jpg (492KB)
BOMBの87年3月号の、4ページ目です。
酒井法子の場合、「胸は大きくならなくていい」と言っているくらいだから、
胸の小さい人でも似合うワンピース水着を着ているのでしょう。
[41] 名前:名無しさん :2021/03/29 (月) 18:16:25 No.5750
5750.jpg (488KB)
BOMBの87年3月号の、5ページ目です。

先日、ソロとしては同期デビューの工藤静香が、テレビ(BS)で、過去のヒット曲を歌ったり、
おニャン子時代の話をしたり、トークでも盛り上がっていました。
酒井法子の最近の活動は、香港や台湾が多いですが、あれから11年以上も経つのだから、
日本のバラエティ番組にも、出てもいいと思います。
[42] 名前:名無しさん :2021/04/14 (水) 01:29:25 No.5866
5866.jpg (495KB)
BOMBの87年3月号の、13ページ目です。
のりピー(当時はのりっぺ)が、小学校のほぼ6年間、埼玉に住んでいた事は、知りませんでした。
埼玉に引っ越したのは、計算すると77年なので、まだ関西弁もあまり浸透していなかった頃です。
福岡弁で話すのりっぺが、周りからイジメられるのは、小学1年では、仕方なかったのかも。
でも、前向きなのりっぺは、イジメに負けませんでした。
歌番組が好きになり、特に松田聖子のファンになったのも、イジメを忘れられたからでしょう。
聖子がデビューした時、のりっぺは小学4年、9歳になっていました。
[43] 名前:名無しさん :2021/04/29 (木) 04:49:58 No.5986
5986.jpg (487KB)
BOMBの87年3月号の、14ページ目です。
イジメらていた時のガキ大将だったA君と、仲良くなったのも、小学4年の時でした。
A君が飼っていた犬が、交通事故で死んじゃって、泣き出したA君。
いつも威張り散らしているA君が、大きな体を震わせて泣いている姿を見て、
のりっぺも哀しくなって泣き出し、クラス全員が泣き出しました。

この事件がきっかけで、クラスメートとも仲良くなったのりっぺ。
でも、小学6年の時には、福岡に戻る事になります。
[44] 名前:名無しさん :2021/05/01 (土) 22:41:49 No.6004
現在、YouTubeを開設しているらしい
[45] 名前:名無しさん :2021/05/14 (金) 11:36:30 No.6118
6118.jpg (492KB)
BOMBの87年3月号の、6〜7ページ目です。

>>44
情報、ありがとうございます。見ました。今後も楽しみですね。
今年4月に事務所から独立して、個人事務所を開設したそうです。
[46] 名前:名無しさん :2021/05/30 (日) 00:00:52 No.6236
6236.jpg (489KB)
BOMBの87年3月号の、8ページ目です。

BOMBやMOMOCOには、デビュー前の86年にも、記事やグラビアが沢山載っていました。
87年3月号の、白黒ページの生い立ち部分が終わったら、それらを載せて行きます。
[47] 名前:名無しさん :2021/06/14 (月) 16:17:12 No.6346
6346.jpg (491KB)
BOMBの87年3月号の、15ページ目です。
福岡に戻って、中学生になったのりっぺは、ソフトボールに明け暮れるスポーツ少女でした。
運動部の練習では、この時代でもまだ、太い棒でオシリをピシッと、
顧問の先生がやっていたんですね。でも、その愛のムチのおかげで、
チビでガリだったのりっぺの根性が鍛えられ、2年でソフトボールのレギュラーを勝ち取り、
3年の時には、県大会で準優勝(決勝では8対9と惜敗)するほどに成長しました。

その先生によると、マラソンでも校内1位になるほど、根性のある子で、
「先生、ヤッタァ!」と飛びついてくる、想い出いっぱいの子だったそうです。
[48] 名前:名無しさん :2021/06/28 (月) 21:23:40 No.6444
6444.jpg (495KB)
ここから、デビュー前の85年末〜86年のBOMBやMOMOCOも、載せて行きます。
これは、85年12月号の、MOMOCOから、MOMOCOクラブの、1ページ目です。
この頃のMOMOCOクラブの人気投票で1位だった酒井法子が、
一番大きなカットになっています。
[49] 名前:名無しさん :2021/07/13 (火) 21:48:34 No.6541
6541.jpg (493KB)
BOMBの87年3月号の、16ページ目です。
初恋は中1の2学期。ケンカ友達のようにしていました。
周りからひやかされ、のりっぺは初恋と思ったようですが、これが片思いだと判ります。
アイドルになる人に、良くあるパターンです。
大親友の4人と、歌手の物まねをするのが大好きで、歌手への憧れを抱くようになりました。

ゴジラの縫いぐるみを着けるほどのゴジラ・ファンだったのりっぺ。
スーパーマンの真似もしていました。これが、VHDデビュー作にある
「エイリアン・ハンターP」に繋がっていったのでしょう。
[50] 名前:名無しさん :2021/07/28 (水) 21:06:44 No.6640
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85年12月号の、MOMOCOから、MOMOCOクラブの、2ページ目です。
まだアイドル歌手デビューの1年3か月も前の、普通の中学生の頃のインタビューなので、
「学校でもバカばっかり。騒ぐ・歌う・踊るの宴会娘。」と言っているのりっぺに、
もしかしたらゴジラの放射能の影響で、脳が汚染されたのかもしれない。と、
ヒドい事を言われています。

愛犬にゴジラと命名したり、メスだったらモスラと付けようとする等、怪獣映画好きなので、
怪獣映画に出れば良かったのに。とも思いましたが、当時のトップアイドルは、
出ていませんね。石野陽子(ゴジラVSデストロイア)とか、
中山忍(ガメラシリーズ)とか、B級アイドルなら、出ていました。
[51] 名前:名無しさん :2021/08/13 (金) 21:29:34 No.6734
6734.jpg (495KB)
MOMOCOの85年12月号の、MOMOCOクラブの3ページ目です。
この顔も24と同様、言われなければ、酒井法子だとは分からない表情です。
[52] 名前:名無しさん :2021/08/29 (日) 00:58:45 No.6829
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BOMBの86年1月号には、「86年ミス・ヘアーコロン 
イメージガール・コンテスト」の結果が載っています。
優勝は、のりピーより1年前に同じサンミュージックからデビューする水谷麻里
(この頃は、本名の葉子)でした。のりピーより1学年若く、14歳でデビューしました。
準優勝の人は、よく知りません。ウィキには、原田知世主演「時をかける少女」で、
知世の妹役として、出演していたそうですが、面影ないですね。

MOMOCO賞の畠田理恵は、のりピーと同期デビューで、同学年です。
肝心ののりピーは、コンテストでは落選し、そのすぐ後、
サンミュージックからスカウトされて、急遽BOMB賞が与えられたそうです。
[53] 名前:名無しさん :2021/09/13 (月) 13:59:07 No.6926
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BOMBの87年3月号の、17ページ目です。
85年10月6日の、「86年ミス・ヘアーコロン イメージガール・コンテスト」の予選、
10月26日の全国大会の内容が、書いてあります。
顔だけ見れば、52の水谷麻里の方が、51の当時ののりっぺより可愛いから、
グランプリを逃したのも、納得です。博多弁の落語が受けていたようなので、
下手に、準優勝かMOMOCO賞を受賞していたら、バラドルになっていたかも知れません。

相沢部長(当時の社長の息子)の目に留まり、スカウトされたので良かったと思います。
たった20日間の歌のレッスンでも、真剣に取り組むと、効果が出るんですね。
[54] 名前:名無しさん :2021/09/29 (水) 23:31:14 No.7024
7024.jpg (495KB)
MOMOCOの86年2月号から、シャープのラジカセの広告です。
のりピーは、VHDを始めとするビクターのCMを、小泉今日子から引き継ぎますが、
その直前なので、シャープを担当したのかと思ったら、プレゼントを兼ねた広告でした。

ちなみに、他の主な電気メーカーのオーディオ・ビデオを中心としたアイドルCMは、
ソニーが松田聖子、パイオニアが中森明菜と、大物二人のCMは不動でした。
シャープは、松本伊代→荻野目洋子と引継ぎ、東芝は、早見優→岡田有希子→本田美奈子と
引き継ぎます。日立は、菊池桃子→中山美穂と引継ぎ、
NECは、三田寛子→斉藤由貴と引き継ぎます。
[55] 名前:名無しさん :2021/10/16 (土) 14:26:31 No.7119
7119.jpg (489KB)
BOMBの87年3月号の、18ページ目です。
東京でデビューのためのレッスンを受けるため、上京して社長宅へ下宿した次の日から、
BOMBのインタビューの取材が入りました。それが、24〜27に載せたインタビューです。
上京翌日から仕事をしたのは、浅香唯も同じです。二人とも九州出身です。
浅香唯の場合は、上京して3か月後にレコードデビューしますが、全く売れず、
「スケバン刑事V」でブレイクするまで、1年半近くかかりました。

これに対し酒井法子は、上京してからレコードデビューまで、1年2か月かかっていますが、
その間、ここにも書いてあるように、連ドラへのレギュラー出演、のりピー族会議の発足
(53の下の、デビューまでの軌跡にあり)、ラジオのレギュラー、
CM出演、世界初のVHDデビューと、様々な仕事をこなし、
満を持してレコードデビューしたので、デビューからトップテンヒットを連発します。
[56] 名前:名無しさん :2021/11/01 (月) 20:34:51 No.7217
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MOMOCOの86年4月号の、VHDモモコ・クラブの案内です。
下に、創刊1〜4号のジャケットが載っていますが、
創刊5号は、いよいよ酒井法子になるのでしょう。
(ジャケットはまだ出来ていないので、写真だけ載せているのでしょう。)
[57] 名前:名無しさん :2021/11/19 (金) 23:02:46 No.7313
7313.jpg (374KB)
MOMOCOの86年3月号が、何故だかアップ出来ないので、
BOMBの87年3月号の、39ページ目を先にアップします。
このアイロンプリントは、紙媒体じゃなきゃ成立しない企画です。
パソコンに強いのりピーは、この頃から、紙媒体の衰退を予測して企画したのでしょうか。
(企画自体は、発売元の学研ですが。)
[58] 名前:名無しさん :2021/12/03 (金) 21:33:12 No.7401
7401.jpg (494KB)
MOMOCOの86年3月号から、モモコクラブの記事です。
[59] 名前:名無しさん :2021/12/03 (金) 21:41:44 No.7402
7402.jpg (331KB)
58に関するコメントは、載せると何故だかエラーになるので、
PDFファイル化して、添付します。
[60] 名前:名無しさん :2021/12/19 (日) 22:39:03 No.7499
7499.jpg (492KB)
BOMBの87年3月号の、19ページ目です。
意外に、仕事と真面目に取り組むのりピーは、真面目な性格が表に出ないように、
のりピー語を駆使したり、共演者にアダ名を付けたりして、
アイドルとしてのキャラを発揮していました。

「奈良の大仏さんはパンチ・パーマ」
「ロックの人ってしゃべり方がみんな同じじゃない?」
こういう発言が、公の場で出来る人なので、キョンキョンの後を継げる
トップアイドルになると、思っていたのですが、その域にまでは達せず、
アイドル時代より、女優になってからの方が、魅力を発揮したと思います。
この間、再放送していた、「ひとつ屋根の下2」も、良かったです。
[61] 名前:名無しさん :2022/01/05 (水) 22:57:43 No.7611
7611.jpg (495KB)
BOMBの87年3月号の、20ページ目です。
[62] 名前:名無しさん :2022/01/05 (水) 22:59:41 No.7612
7612.jpg (168KB)
61に関するコメントは、載せると何故だかエラーになるので、
PDFファイル化して、添付します。
[63] 名前:名無しさん :2022/01/20 (木) 21:17:43 No.7715
7715.jpg (497KB)
BOMBの86年8月号には、デビュー前にも関わらず、
パソコン・ゲームに関する7ページの特集の、主役となっています。
その1ページ目です。
[64] 名前:名無しさん :2022/02/06 (日) 02:10:41 No.7821
7821.jpg (495KB)
BOMBの86年8月号の、パソコン・ゲームに関する特集の2ぺージ目です。
ゲームに疎い私でも、ブロック崩しと、インベーダーゲームぐらいは、
知っています。
[65] 名前:名無しさん :2022/02/21 (月) 12:58:14 No.7914
7914.jpg (496KB)
BOMBの87年3月号の、21ページ目です。
アイドル恒例のボディチェックのコーナーです。
身長156cmで、もっと小さい方がいい。というアイドルは、珍しいです。
バスト78cmで、大きくならなくていい。は、サン・ミュージックの伝統かも知れませんが。

顎が尖がっているのが、キョンキョンに似ているだけではなく、理想の女の子像を求めて、
女の子として、アイドルとして、絶えず成長・変革を見せていった点でも、
キョンキョンと似ていると思います。理想の身長153cmも、キョンキョンの身長だからかな。
バストもヒップも、キョンキョンより細いですが、ちっちゃい体の女の子が理想の、
のりピーにとっては、理想なのでしょう。ウェスト58cmでも、もっと細くなりたいようです。
[66] 名前:名無しさん :2022/03/09 (水) 22:22:23 No.7997
7997.jpg (491KB)
BOMBの87年3月号の、22ページ目です。
こちらもアイドル恒例の、自室イラスト公開です。
サン・ミュージックでは、地方から出てきたアイドルが、社長宅に下宿するのは、
70年代の桜田淳子のデビュー3年目から、始まりました。
人気が出るまでは、二人部屋で、人気が出ると一人部屋に移るシステムは、
松田聖子が、デビュー早々に社長宅から出て行ったから、出来たシステムなのでしょう。

その点、のりピーは、デビュー前から人気があったにも関わらず、この時点でも二人部屋でした。
下宿人の世話をしているおばさんにも気にいられ、後のテレビ番組で、
そのおばさんの事を、芸能界のお母さんと呼んでいました。
[67] 名前:名無しさん :2022/03/26 (土) 09:14:21 No.8085
8085.jpg (487KB)
BOMBの86年8月号の、パソコン・ゲームに関する特集の3ぺージ目です。
パソコン・ゲームのような企画ページに載るようなキャラだったので、
レコードで歌手デビューする前に、VHDソフトでデビューし、エイリアンと闘う
エイリアン・ハンターPという役のミニ・ドラマまで演じる事になったのでしょう。
アイドルとしてデビューするはずなのに、なんでこんな事しているんだろう。
と、当時から思っている事を、2007年頃のテレビ番組で、振り返っていました。
[68] 名前:名無しさん :2022/04/12 (火) 00:40:45 No.8168
8168.jpg (491KB)
BOMBの86年8月号の、パソコン・ゲームに関する特集の4ぺージ目です。

ゲームとは関係ないけど、87年2月には、無事アイドル歌手としてレコードデビュー。
新曲を出す度に売り上げを伸ばして行きましたが、88年夏、「のりピー音頭」を
夜ヒット等で歌う事になったのりピー。同期のアイドルが、徐々に大人っぽい歌に
シフトして行く中、私だけ何故「のりピー音頭」のなのかな?と、疑問に思ったそうです。
同じ2007年頃のテレビ番組に出演した時に、言っていました。


[69] 名前:名無しさん :2022/04/29 (金) 10:36:41 No.8246
8246.jpg (494KB)
BOMBの87年3月号の、23ページ目です。
ここから4ページに渡って、Q&Aが載っています。
アイドル革命を起こしたキョンキョンの後を受け継いだのが、のりピーという感じがするので、
Q&Aでも、ホンネをバンバン言っています。それまでのアイドルは、
焼き肉が好きとかいうのは、タブーだったと、近年ママドルになった人達が言っていますが、
のりピーは、ハッキリと焼き肉が好きと言っています。

この頃から、「好きな食べ物はプリンです。」みたいな可愛い答えをするアイドルは、
時代遅れになっていった感覚があります。
[70] 名前:名無しさん :2022/05/16 (月) 00:04:12 No.8329
8329.jpg (494KB)
BOMBの87年3月号の、24ページ目です。Q&Aの2ページ目です。
中2の頃、ゴジラの大ファンだった。と言っています。
ゴジラの第一作目のリメイク版が、正月映画として公開された年末は、84年。
71年生まれののりピーは、早生まれなので、13歳で中2でした。
あの頃は、9年ぶりに復活したゴジラなので、ゴジラ・グッズも出回っていました。

ソフトボールが、本当はあまり上手くない。と言っています。
47に載せた、部活顧問の先生に鍛えられて。やっとレギュラーを勝ち取ったので、
自分の実力ではない。と思っているのでしょう。
テレビに映った自分の顔を見て、太って見える。と言っているタレントは、
当時は他にも沢山いました。今のような液晶ではなく、
丸みを帯びたブラウン管テレビの頃だったからでしょう。
[71] 名前:名無しさん :2022/06/01 (水) 20:22:18 No.8407
8407.jpg (495KB)
BOMBの86年8月号の、パソコン・ゲームに関する特集の5ぺージ目です。
左下に、のりっぺのテレフォン・サービスが、告知されています。
ビクターでは、古くからあるサービスで、キョンキョンがまだ中学生の頃、
石野真子のテレフォン・サービスを、良く聞いていて、
自分がデビューする時に、キョンキョンのテレフォン・サービスを吹き込む事になり、
不思議な感覚になったそうです。のりっぺも同じかな?
[72] 名前:名無しさん :2022/06/18 (土) 05:54:40 No.8485
8485.jpg (491KB)
BOMBの86年8月号の、パソコン・ゲームに関する特集の6ぺージ目です。
酒井法子は、まだのりっぺと言っていましたが、酒井法子のファンを「のりピー族」と言い、
他のファンとの違いを明確にすると同時に、最先端を行っている事を、
パソコンを使ったファン募集をしている事から、アピールしています。

先日ニュースで、1995年から22年間続いたインターネット・エクスプローラーが、
更新を止める(事実上の廃止へ向かう)と、告知していました。
1995年当時は、パソコンを使う人はマニアが多く、今のようにスマホ等にも利用し、
みんなが使う事を前提にしていなかったので、セキュリティ対策が十分に出来ないから。
だそうです。その1995年より9年も前に、パソコンを使ったファン募集をしている
酒井法子は、まさに最先端を行っていました。
[73] 名前:名無しさん :2022/07/03 (日) 21:42:39 No.8559
8559.jpg (497KB)
BOMBの87年3月号の、25ページ目です。Q&Aの3ページ目です。
熱しやすく、冷めやすい性格。長所は明るい事。短所は短期な事。と言っています。
「電車の中でくっついているカップル見ると、石投げたくなる。」とか、
「(痴漢にしつこく付け回されて)もう少し続いたら、絶対どなりつけてましたよぉ。」
と、過激な発言をしているのが、短期なところなのでしょう。

でも、男性ファンは可愛いから許せちゃうし、女性ファンは、ズバズバ言うところに、
惹かれるのでしょう。菊池桃子のモノマネが上手いのは、のりピー自身が、
菊池桃子をカジュアルにした感じなので、分かりますが、中山美穂や工藤静香とは、
雰囲気もキャラも違うので、モノマネも、自分に酔っているだけなのでは?
でも後年、その工藤静香と仲良くなるんですよね。
[74] 名前:名無しさん :2022/07/18 (月) 20:55:57 No.8631
8631.jpg (496KB)
BOMBの87年3月号の、26ページ目です。Q&Aの4ページ目です。
ここに書いてある理想の相手と結婚出来たら、覚醒剤はやっていなかったでしょう。
でも、芸能界を辞めていたかも知れないので、どっちがマシなんだろう。
(本人にとっては、前者がいいと思いますが。)
昨今の80年代ポップス・ブームや80年代アイドル部ブームを思えば、
もし覚醒剤の問題がなければ、引っ張りダコだったと思います。

下ののりピー語を見ていて、他の人が酒井法子を呼ぶ時は、のりピー。
自分で自分の事を言う時は、のりっぺと言っている事が、分かります。
要するに、ニックネーム(前者)とあだ名(後者)の違いですね。
[75] 名前:名無しさん :2022/08/04 (木) 11:58:11 No.8709
8709.jpg (491KB)
BOMBの86年8月号の、パソコン・ゲームに関する特集の7ぺージ目です。
この時代のパソコンは、電話回線を使っていたので、極端に遅かった事でしょう。
私も、大学ではパソコンの授業がありましたが、就職してからは、
ワープロばかり使っていました。会社でワープロが取り合いになるので、
88年ぐらいに自分で買った記憶があります。
[76] 名前:名無しさん :2022/08/18 (木) 18:30:08 No.8776
8776.jpg (490KB)
BOMBの86年9月号から、CM初登場の記事です。
初CMでは、逆上がりをする事になった法子。堀ちえみが出ていたCMへの出演が決まった
嬉しさから、逆上がりが出来ないのに、出来ると言ってしまいます。
前は出来たのに、出来なくなったのは、おシリが重くなったのかなァと分析すつ法子。
ソフトボールで鍛えると、やはり下半身が充実してしまうのでしょう。

CM撮影では、逆上がりに何度も挑戦し、最後は前回りに変えたけど、50回も回り、
「家に帰ったら、青アザがお腹に出来ていた。」との事。「何かやる時は、悔いを残さない。」
がモットーの法子は、見た目とは違って、根性のある娘です。
[77] 名前:名無しさん :2022/09/04 (日) 22:23:38 No.8839
8839.jpg (491KB)
BOMBの87年3月号の、27ページ目です。
生まれて初めての海外ロケ(グァム・ハワイ)の様子が、4ページに渡って載っています。
その1ページ目です。
[78] 名前:名無しさん :2022/09/21 (水) 20:44:48 No.8899
8899.jpg (493KB)
BOMBの87年3月号の、28ページ目です。グァム編の1ページ目です。
日本の警察とは違い、グァムのおまわりさんは、ミーハーですね。
アーチャリーは、私もやった事がありますが、慣れないと、弦が持つ方の腕に当たって、
痛いんです。腕も腫れるので、撮影に支障をきたすから、スタッフが、
思いっ切り弦を引かないように、注意したのでしょう。
的に矢が届かないのは、そのためでしょう。
[79] 名前:名無しさん :2022/09/24 (土) 22:55:20 No.8909
アーチャリーはオウム
[80] 名前:名無しさん :2022/10/08 (土) 08:16:53 No.8972
8972.jpg (496KB)
BOMBの86年12月号から、VHDデビュー作「YUPPIE」の紹介記事です。
収録されているミニ・ドラマ「エイリアン・ハンターP」は、小中和哉が監督している事が、
分かります。小中和哉は、1年半後の88年3月公開の映画「四月階段」で、
本格的に劇場映画の監督としてデビューします。この2年半後に公開されたアメリカ映画
「ゴースト・ニューヨークの幻」は、「四月階段」を元にしているような内容でした。

VHDディスクと、レーザーディスク(LD)が、甲乙つけ難かった頃ですね。
VHDは、83年頃から始まる第三次3Dブームをディスクに取り入れて勝負していた事を、
思い出しました(第一次は60年頃、第二次は70年代初、第四次は2000年代後半)。
結局、同時期にCDとコンパチブルにしたLDの方が勝利し、VHDは衰退して行きました。
[81] 名前:名無しさん :2022/10/24 (月) 23:05:07 No.9035
9035.jpg (487KB)
BOMBの86年12月の、1〜2ページ目です。
VHDでデビューし、3か月後にレコードデビューを控えたのりピーが、
BOMBのカラーグラビアに初登場したカットです。
[82] 名前:名無しさん :2022/11/11 (金) 16:54:18 No.9106
9106.jpg (496KB)
BOMBの87年3月号の、29ページ目です。グァム編の2ページ目です。
H発砲スチロールで、ものすご〜く軽い。のに棒が曲がって見えるのは、棒も発砲スチロール?
(12)(二桁の数字を丸で囲むと、文字化けするので( )にしました。) 
 こんなデカいタイヤ?の水上自転車は、快適そうですね。
(13)卓球で、意地でも負けないもん。と言っていたのりっぺが、
  有言実行で1位。もちろん実力だけど。と、あくまで強気ののりっぺです。
[83] 名前:名無しさん :2022/11/27 (日) 21:22:40 No.9170
9170.jpg (491KB)
BOMBの87年3月号の、30ページ目です。ハワイ編です。
Cマネージャーにおんぶされて、楽をしているのりピーですが、
Fそれもつかの間、マネージャーのサーフボード替わりをさせられてしまいます。
EアイスクリームのCF撮りでは、たくさん食べなきゃいけないので、
 石野真子も松田聖子も、苦労していましたが、のりピーもその洗礼を受けました。
[84] 名前:名無しさん :2022/12/13 (火) 00:40:31 No.9236
9236.jpg (487KB)
BOMBの86年12月の、3ページ目です。
アイドル・デビューのきっかけは、70年代初頭には、南沙織、麻丘めぐみ、
アグネス・チャン等のスカウト組と、天地真理、浅田美代子(「時間ですよ」)等の
オーディション組に分かれていました。70年代中旬からは、「スター誕生」や、
「君こそスターだ」といった、テレビ公開オーディション出身が主流になりました。

80年代に入ると、スカウト組・オーディション組とも多様化します。
スカウト組では、松本伊代や菊池桃子のように、スカウトされた後、オーディションを受ける人、
オーディション組では、テレビ公開オーディションだけではなく、ホロプロ・芸映等の
事務所主催のオーディションや、セブンティーンやマガジン等の雑誌主催のオーディション等です。

更に、東宝シンデレラ・オーディションに落選した斎藤由貴をスカウトしたりする、
敗者復活パターンまで出てきます。のりピーも、ミス・ヘアコロン・オーディションに落選し、
サン・ミュージックからスカウトされた敗者復活パターンでした。
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