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松田聖子

[1] 名前:名無しさん :2019/04/11 (木) 19:31:56 No.2503
2503.jpg (496KB)
月刊平凡の81年3月号から、ミスターソニーの募集広告です。
応募要項等は、今となっては関係ないのでカットしました。
[2] 名前:名無しさん :2019/04/15 (月) 22:17:36 No.2529
2529.jpg (471KB)
アイドルデビュー伝説から、近代映画の80年11月号の、2ページ目です。
アイドルのファースト・アルバムが、ヒットチャートで2位まで上昇したのは、
初めての快挙だと思います。70年代アイドルは、ベストアルバムは売れても、
オリジナル・アルバムはディープなファンしか買わず、売れませんでした。
レコード会社側も、アルバム収録曲の内容より、特典ポスターやブックレットを充実させていました。
「1枚目が好評なだけに、2枚目はそれ以上のLPにしなくちゃいけないでしょう。
選曲が大変だわ。」仲良しの岩崎良美が、アルバム重視の歌手活動をしているので、
聖子もアルバム重視の考え方になってきているのかも知れません。
自分の人気について、「なにがよくって、あんなに大勢の人が応援してくださるのか。」
と正直に答えています。ニューミュージック系のアーティストに曲を依頼したから売れたと、
後の評論家は分析していますが、それはもっと後の事です。
[3] 名前:名無しさん :2019/04/15 (月) 22:21:02 No.2530
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アイドルデビュー伝説から、近代映画の80年11月号の、3ページ目です。
ドラマや映画の役名がそのまま芸名になるのは、よくある事ですが、
それはヒットしたドラマや映画の主演級の場合です。「おだいじに」は、歌手デビュー前に
プロモーションとして出演していたので、芸名が決まった後、役名にしてもらいました。
サンミュージックでは、桜田淳子(本名)の成功の後、○田○子(○○子の場合もあり)という
芸名を付ける場合が多かったですが、成功したのは、最初の松田聖子と、岡田有希子だけでしょう。
聖子は、ローマ字にするとSEIKOとなり、某時計メーカーと同じになるのが、
芸名として成功した理由だと思います。
同じ頃売れていたシンガーソングライターの沢田聖子(しょうこ)と被るので、
同じ読みにしなかったのかも知れません。
気に入っているオデコを隠したり、長くしたいと言っている髪の毛をカットしたり、
この頃は自己主張せず、事務所の以降を尊重していました。唯一自分で時間をかけてブローしている
髪型が、聖子ちゃんカットとして大流行したのは、嬉しかった事でしょう。
[4] 名前:名無しさん :2019/04/15 (月) 22:24:15 No.2531
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2004年12月20日発行の「ザ・ベストテン2004」のムック本に、
「ザ・ベストテン」に出演した当時の事を語ったインタビューが載っています。
インタビュー自体は2ページ目です。
[5] 名前:名無しさん :2019/04/15 (月) 22:26:24 No.2532
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「ザ・ベストテン2004」のムック本の、インタビューページです。
初めてのザ・ベストテンへの出演は、親友の岩崎良美と一緒にスポットライトに出た時です。
良美も、その後すぐにベストテン入りをしたので、良かったです。
そして聖子の初ベストテン入り(青い珊瑚礁)の時は、羽田空港のタラップを降りながら、
歌いました。その時のスタッフの苦労は、後に金スマのザ・ベストテン・スペシャルで、
再現されていました。
[6] 名前:名無しさん :2019/04/15 (月) 22:29:10 No.2533
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月刊明星の80年7月号から、1980年の有望女性新人8人の集合写真です。
姉がトップアイドル歌手である事から知名度が浸透している岩崎良美は、
女優として数本のドラマに出演し、この8人よりも歌手デビューが早く、
集合写真を撮った時点(80年5月初)には、デビュー曲がヒットしていたので、
別格扱いされ、集合写真には載っていません。
他の8人は、この時点ではまだ結果が出ていないので、横一線状態なのでしょう。
(三原順子は、レコードデビューが9月なので、この時点では載っていません。)
聖子を始め、みんな初々しいです。
[7] 名前:名無しさん :2019/04/25 (木) 00:32:32 No.2583
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月刊明星の80年7月号から、1980年の有望女性新人8人の、
リレー形式で載っている記事の1ページ目です。
トップがよしえ、2番手が奈保子で、奈保子からバトンを渡された聖子が3番手です。
右は奈保子の記事なので、空白にしました。
ラジオ「パンチ・パンチ・パンチ」は、1年間のレギュラーでしたが、
「レッツゴーヤング」は、1年間サンデーズとしてレギュラーを続けた後、
田原俊彦と共に、司会でも1年間活躍しています。オリコン1位を獲得し続けて、
女性アイドルNo.1の地位を築き上げても、2年間レギュラーを続けていたのは、立派です。
サンミュージック・タレント・スクールの校長のマンションに住み始めて1ヶ月との事です。
その前は、社長宅に下宿していました。(先輩の太川陽介が言っていました。)
ベランダで野菜作りを始め、得意の料理も始めましたが、この後、2曲目の「青い珊瑚礁」が
大ヒットしてから、忙しくなって料理する時間が無くなった事でしょう。
[8] 名前:名無しさん :2019/04/25 (木) 00:34:24 No.2584
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月刊明星の81年3月号から、折り込みブロマイドです。
[9] 名前:名無しさん :2019/04/25 (木) 00:36:34 No.2585
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月刊明星の80年7月号から、リレー形式記事の2ページ目です。
結婚願望が強かった、この頃の聖子。兄の結婚で、ますます強くなったかも知れません。
母性本能が豊かだった、この頃の聖子。カトリックで、毎日寝る前にお祈りしていたんですね。
後に、英語を特訓したり、アメリカ進出を狙ったのも、カトリックの影響でしょうか?
「青い珊瑚礁」以降の連続大ヒットが続き、忙しくてすぐには結婚出来ないと悟った聖子は、
母性本能が、世話好きの方向へ行ったのか、
同期でも年下の奈保子やよしえの良き相談相手になりました。
[10] 名前:名無しさん :2019/04/25 (木) 00:38:01 No.2586
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月刊明星の81年9月号から、折り込みブロマイドです。
[11] 名前:名無しさん :2019/04/25 (木) 00:40:55 No.2587
2587.jpg (498KB)
アイドルデビュー伝説から、近代映画の81年1月号の、1ページ目です。
21人の証言が、8ページ(凄い)に渡って載っています。さすが聖子ちゃん。
[12] 名前:名無しさん :2019/05/03 (金) 00:02:47 No.2633
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アイドルデビュー伝説から、近代映画の81年1月号の、2ページ目です。
仮死状態で産まれ、未熟児寸前だった法子(聖子の本名)ですが、1歳で久留米市内で、
2番目の健康優良児に選ばれるほど、元気いっぱいに育ちます。
小学校入学前から、お正月に親戚の前で歌を歌い、1曲毎にお年玉をもらっていたそうです。
レコードデビューは遅い方ですが、幼児の頃からセミ・プロみたいな法子でした。
8歳年上の兄は、成績が飛び抜けて優秀だったので、同じ小学校に通うようになると、
兄と比べられて、くさっていたそうです。8歳も離れていても、比べられるとは、災難でした。
「チャーミングで明るく、社交性に富み、とにかく目立つでしたね。」
何事にも積極的で、口が達者な法子は、アイドルにピッタリの性格だった事が判ります。
何しろ、8歳年上の兄を口喧嘩で負かせてしまうほどなのだから。
後に、テレビのトーク番組で、両手を叩きながら、大笑いする明るい聖子の性格が、
既に表れています。
[13] 名前:名無しさん :2019/05/03 (金) 00:04:15 No.2634
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月刊明星の82年5月号から、折り込みブロマイドです。
[14] 名前:名無しさん :2019/05/03 (金) 00:06:18 No.2635
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アイドルデビュー伝説から、近代映画の81年1月号の、3ページ目です。
小学生の頃は、お父さんっ子の法子でしたが、両親は躾には厳しかったです。
忙しさにかまけて、子供の欲しい物をすぐに与える現代の親と、当時の親は違いました。
編み物や洋裁は苦手でしたが、料理は好きで上手だったようです。
(クッキーは苦手だったようで、夜ヒットに出た時、井上順にけなされていました。)
中学の頃は、軟式テニス部に籍を置いていましたが、あまり練習していないらしく、
高校の時、親友に「上手くないわね」と言われています。
堀越高校に転校してから仲良くなった岩崎良美は、テニスに凝っていて、
良くノリ(聖子)を誘ってテニスをしていました。ノリが下手なので、練習場まで紹介しています。
負けず嫌いの聖子は、忙しくて練習がなかなか出来ないので上達せず、悔しい思いをしました。
中学の頃、もっと練習していれば、と思っていた事でしょう。
[15] 名前:名無しさん :2019/05/03 (金) 00:07:52 No.2636
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月刊明星の82年5月号から、プレゼントコーナーです。
[16] 名前:名無しさん :2019/05/03 (金) 00:11:41 No.2637
2637.jpg (497KB)
アイドルデビュー伝説から、近代映画の81年1月号の、4ページ目です。
お小遣いでは足りない時、お父さんから「お弁当代」としてお金をもらう、チャッカリした
世渡りの上手い聖子の性格が、早くも出ているエピソードが面白いです。
高1の3学期、卒業生の送別会で、ピンクレディーを親友と猛練習して歌い踊り、
テープが飛んでくる凄い声援を浴び、その感激が忘れられず、2人で歌手になる誓いをします。
高1〜2年の頃のミーとケイが、レコード店の前で、PR用にキャンディーズを歌い、
歌手になった気分を味わっていたエピソードと重なります。70〜80年アイドルは、
先輩アイドルが活躍する姿に憧れて、連鎖反応的に新人アイドルが生まれてきました。
法子は、親友に勧められて応募した「ミス・セブンティーン」の九州地区大会で1位になりますが、
両親(特にお父さん)や高校が、全国大会出場を認めず、涙ながらに断念します。
そんな時、九州代表の法子が歌う「気まぐれヴィーナス」のテープを聞いた
CBSソニーの若松プロデューサーが、爽やかさの中にセクシーさがある法子の声に惚れ、
九州まで会いに行きます。
[17] 名前:名無しさん :2019/05/15 (水) 23:38:19 No.2715
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月刊明星の82年6月号から、封入付録のブックマーカー(しおり)です。
[18] 名前:名無しさん :2019/05/15 (水) 23:43:27 No.2716
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アイドルデビュー伝説から、近代映画の81年1月号の、5ページ目です。
若松プロデューサーから何の連絡もないので、歌手になりたい旨を手紙に書いて出す法子。
自宅に電話する若松P。運良く法子が電話に出て、正月に東京で会う約束をします。
もし父親か母親が電話に出たら、話がこじれていたかも知れません。
若松Pの説得に、「本人がそこまで思いつめているとは知りませんでした。」と父親のOKが出ます。
若松Pは、法子をサンミュージックに紹介します。「最近の新人の女の子よりも鮮度がある」と感じた
サンミュージックですが、14歳でデビューした桜田淳子の成功例を持っているので、
デビュー時に18歳になる法子では、アイドルデビューするには遅いと思います。
しかし、福岡から単身上京する法子のガッツに動かされ、所属を決めます。
待たされていた半年間、福岡で歌のレッスンをして表現力を身に付け、
上京後も半年間、歌のレッスンをした法子は、苦手だった低音部分やリズム感を身に付け、
新人としては異例の、歌の上手いアイドル・松田聖子が誕生します。
[19] 名前:名無しさん :2019/05/22 (水) 23:37:31 No.2753
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月刊明星の81年1月号から、がらくた市のコーナーです。
[20] 名前:名無しさん :2019/05/22 (水) 23:42:45 No.2754
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アイドルデビュー伝説から、近代映画の81年1月号の、6ページ目です。
79年11月には、67年から続くラジオ番組「パンチ・パンチ・パンチ」の、
7代目パンチ・ガールのオーディションを受け、1位で合格。
他の2名ともに、80年末までパンチ・ガールを続けます。
「今度のパンチ・ガールは、新人賞レースに出られるくらいにスター性のある子に
しようじゃないか。」との担当ディレクターの目算を上回る活躍を見せた聖子。
次の8代目パンチ・ガールに選ばれた林紀恵は、
「あの聖子さんが初めてレギュラーになったラジオ番組」と言っていましたが、
残念ながら番組とパンチ・ガールは、8代目を持って終了となりました。
[21] 名前:名無しさん :2019/06/12 (水) 21:42:22 No.2849
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月刊明星の82年7月号から、プレゼントコーナーです。

70年代後半、ピンクレディー旋風が吹き荒れ、ファン層が子供達にまで広がったため、
その後の榊原郁恵・大場久美子・石野真子等のアイドルは、
ファン層のターゲットを子供寄りにしていました。
石野真子が「ワンダーブギ」を歌う時、子供達が周りを回っている姿が、その典型です。
身体がグラマーなのに、子供っぽい顔と声で歌うこの3人を始めとした当時のアイドルは、
子供達の支持は受けましたが、アイドルが売れる原動力となる中・高生の支持を得られず、
レコードセールスは伸び悩みました。
[22] 名前:名無しさん :2019/06/12 (水) 21:53:42 No.2850
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月刊明星の82年9月号から、プレゼントコーナーです。

代わりに支持を得ていたのは、中・高生のツイスト・ゴダイゴを中心としたロック勢や、
八神純子や庄野真代・渡辺真知子を中心としたニューミュージック勢です。
しかし80年に入ると、ロック勢・ニューミュージック勢は、久保田早紀「異邦人」、
クリスタルキング「大都会」、もんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」等、
150万枚前後の超大ヒットを出しながらも、その後が続かず、人気を維持出来ませんでした。
[23] 名前:名無しさん :2019/06/12 (水) 22:07:30 No.2851
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月刊明星の82年10月号から、プレゼントコーナーです。

そんな80年夏に大ヒットしたのが、松田聖子の2ndシングル「青い珊瑚礁」です。
松田聖子は、グラマーとは正反対の華奢な身体でありながら、高音が伸びるストロングボイスで、
小田裕一郎作曲の、アメリカ西海岸の香りがするメロディを歌った事が、中・高生の支持を得て、
本来のアイドルらしい容姿と相まって、大ブレイクする大きな要因になったと思います。
デビュー曲「裸足の季節」から、ストロングボイスは活きていましたが、
それをサビ先のメロディに活かして、一般の中・高生の間にまで浸透した結果、
大ヒットしたのが「青い珊瑚礁」であり、その路線を続けた3rdシングル「風は秋色」で、
初のオリコン1位を獲得し、その人気を不動のものにしました。
[24] 名前:名無しさん :2019/06/23 (日) 00:33:51 No.2894
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平凡パンチの80年6月2日号から、親友の岩崎良美と一緒に載っている
インタビューの1ページ目です。
「フランス人形みたいな女の子」と書いてあります。
平凡パンチなので、パンチ・ガールをやっている事も、当然書いてあります。
[25] 名前:名無しさん :2019/07/03 (水) 00:34:51 No.2943
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平凡パンチの80年6月2日号から、親友の岩崎良美と一緒に載っている
インタビューの2ページ目です。
1ページ目に書いてある、アメリカ西海岸への招待目当てで応募したと言う、
ミス・セブンティーン応募の理由が、チャッカリした聖子らしいです。
小学校の頃は、学校の成績が良く、将来は女医を目指していましたが、
中学へ入ると、自分の成績ぐらいでは女医は無理だと悟り、
小学五年の時に見ていたドラマ「アテンションプリーズ」の影響で、
スチュワーデスを目指して、英語を猛勉強し、英検3級を取りました。
[26] 名前:名無しさん :2019/07/18 (木) 22:48:34 No.3018
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平凡パンチの80年6月2日号から、親友の岩崎良美と一緒に載っている
インタビューの3ページ目です。
8年間も好きだった初恋の人。十代の聖子(蒲池法子)は、純情だったんですね。
結婚は25歳過ぎと言っていますが、山口百恵を理想としていた聖子は、
神田正輝との映画での共演を機会に、23歳で結婚。その後2年間は表舞台に出ませんでした。
そのまま続けば第二の山口百恵になっていたかも知れませんが、
2年後に芸能界に復帰し、ママドルと呼ばれる新語を作りました。

これで、しゃんばらの最後のスレ(何度も落ちた)に貼った画像は終わりです。
次回からは、その前に載せたしゃんばらの画像を、再掲載します。
[27] 名前:名無しさん :2019/08/04 (日) 00:39:27 No.3081
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2000年4月25日発行の20世紀アイドルスター大全集・80年代編(近代映画社)から、
松田聖子の1ページ目の右上です。
プロフィール欄に書いてある奔放な恋愛遍歴、離婚、歯科医との再婚等、90年代の聖子は、
マスコミからのバッシングが酷かったです。それでも打たれ強かったのは、
24曲連続1位等、80年代を代表するアイドルとしての自負があったからでしょう。
21世紀に入ってからは、アイドルから歌姫へと見事に変身して行きました。
[28] 名前:名無しさん :2019/08/04 (日) 00:52:59 No.3082
3082.jpg (214KB)
20世紀アイドルスター大全集から、1ページ目の左上です。
着物を着てもキュートと書いてありますが、81年の映画「野菊の墓」に主演した時は、
聖子ちゃんカットをやめて額を見せた髪型が、賛否両論を生みました。
聖子自身は、この髪型が嫌だったのか、当分映画には出演しませんと言っていました。
アイドル時代のブリッコ、90年代の恋愛遍歴とマスコミ・バッシング等、
賛否両輪が多い聖子ですが、それをバネにして活躍し続ける精神力の強さは、
アイドル界No.1だと思います。
[29] 名前:名無しさん :2019/08/04 (日) 00:57:27 No.3083
3083.jpg (71KB)
20世紀アイドルスター大全集から、1ページ目の右の上から2番目です。
「白いパラソル」を歌っていた頃なのか、白いパラソルをしています。

70年代のアイドルブームを、9年後に再現したかのように推移した80年代のアイドルブーム。
71年デビューの天地真理が、70年代初めのアイドルシーンを牽引したのと同じように、
80年デビューの松田聖子が、80年代初めのアイドルシーンを牽引しました。
[30] 名前:名無しさん :2019/08/04 (日) 01:00:15 No.3084
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20世紀アイドルスター大全集から、1ページ目の右の下から2番目です。

73年に中3トリオ(特に百恵と淳子)に人気を奪われ、失速していった天地真理とは対照的に、
82年にデビューし、人気が急上昇して行った明菜とキョンキョンに対し、
聖子は常に先輩アイドルとして、その王道を示しながら歩んで行きました。
[31] 名前:名無しさん :2019/08/04 (日) 01:15:40 No.3085
3085.jpg (161KB)
20世紀アイドルスター大全集から、1ページ目の左の中央です。
レオタード姿が決まっている聖子ちゃんですが、実はガニ股で、
良く一緒に仕事をしていたトシちゃんに、ガニ股を注意されていました。


[32] 名前:名無しさん :2019/08/09 (金) 22:06:47 No.3107
3107.jpg (95KB)
20世紀アイドルスター大全集から、1ページ目の左下です。
ケーキ作りは得意でも、クッキーは苦手だったようで、
80年の夜ヒットに出演した際、手作りのクッキーを井上順が試食し、
美味しくなかった事を暴露していました。
[33] 名前:名無しさん :2019/08/09 (金) 22:11:05 No.3108
3108.jpg (55KB)
20世紀アイドルスター大全集から、1ページ目の右下です。

(29・30の続き)
84年に人気のピーク時を迎えた明菜やキョンキョンに対して、一歩も引けを取らず、
ヒット曲を連発していった松田聖子。84年の聖子・明菜・キョンキョンの三つ巴のヒット曲争いは、
70年代を超える80年代アイドル黄金時代を象徴する年であり、それを牽引したのが松田聖子です。
[34] 名前:名無しさん :2019/08/09 (金) 22:18:53 No.3109
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20世紀アイドルスター大全集から、2ページ目の右上です。

松田聖子の曲の中では、デビュー曲「裸足の季節」〜3曲目「風は秋色」までの小田裕一郎3部作、
4曲目「チェリーブラッサム」とそのB面「少しずつ春」、5曲目「夏の扉」
(いずれも財津和夫作曲)が、好きでした。
いずれも疾走感溢れる軽快なアイドルポップスであり、初期の松田聖子の人気爆発を支える
原動力になりました。特に、「チェリーブラッサム」は今でも大好きです。
[35] 名前:名無しさん :2019/08/09 (金) 22:26:36 No.3110
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20世紀アイドルスター大全集から、2ページ目の右下です。

13曲目「天国のキッス」、16曲目「Rock'n Rouge」、20曲目「天使のウィンク」、
38曲目「輝いた季節へ旅立とう」と、その後もこの系統の曲をリリースし、
初期のファンへのサービスを忘れなかった事が、人気持続の一因でしょう。
[36] 名前:名無しさん :2019/08/09 (金) 23:58:34 No.3111
3111.jpg (284KB)
20世紀アイドルスター大全集から、2ページ目の左上です。
初期の聖子は、人気沸騰とともに「かわいこブリッコ」「聖子ちゃんカット」といった話題が先行し、
歌唱力については、正当に評価されていなかったと思います。
桜田淳子は、声に特徴があり、当時よく物まねされていましたが、淳子の曲を、淳子以上に
上手く歌える歌手はいなかったです。五木ひろしが、その事を物まね番組で言っていました。
その淳子の曲を、物まね番組で淳子以上に上手く歌ったのが、事務所の後輩の聖子でした。
その時歌った「気まぐれヴィーナス」は、聖子がミス・セブンティーンで歌った曲ですが、
デビュー前に、長い間レッスンを積み重ねていたので、ミス・セブンティーンの頃より、
歌唱力が格段に向上していたのでしょう。その聖子の歌唱力が、正当に評価され始めたのは、
ユーミン作曲の歌をリリースした82年からです。
[37] 名前:名無しさん :2019/08/17 (土) 23:10:14 No.3141
3141.jpg (148KB)
20世紀アイドルスター大全集から、2ページ目の左中央です。
デビュー2年目のアイドル歌手に与えられる、レコード大賞のゴールデン・アイドル賞は、
81年に新設されました。出演すると視聴率が稼げるけれども、まだ大賞候補曲には入れたくない
審査員たちの思惑から出来た賞のような感じがしました。
[38] 名前:名無しさん :2019/08/17 (土) 23:12:02 No.3142
3142.jpg (132KB)
20世紀アイドルスター大全集から、2ページ目の左下です。

デビュー曲「裸足の季節」の、10〜20位内にいるチャートアクションは、
仲良しの岩崎良美の2ndシングル「涼風」と同じような動きでした。
78年〜80年前半まで、ヒットチャートはロック・ニューミュージック勢が席巻し、
新人アイドルがベストテン内に入る事は、至難の業でした。
[39] 名前:名無しさん :2019/08/17 (土) 23:15:38 No.3143
3143.jpg (128KB)
20世紀アイドルスター大全集から、3ページ目の右上です。
映画「野菊の墓」からのカットです。

松田聖子も、新人アイドルとしてはトップクラスながら、
ベストテン内に入るとは、思ってもみませんでした。
ところが、2ndシングル「青い珊瑚礁」は、ヒットチャート2位まで上昇。
その当時の驚きは、今でも鮮明に覚えています。
[40] 名前:名無しさん :2019/08/17 (土) 23:26:14 No.3144
3144.jpg (270KB)
20世紀アイドルスター大全集から、3ページ目の左上です。
これも、映画「野菊の墓」からのカットです。賛否両論を生んだ、額を見せた髪型です。

当時の私は桜田淳子ファンで、80年6月頃、明星ヤングソングショーの公開録音を
見に行っていました。メインはサンミュージックの桜田淳子でしたが、その前座に同じ事務所の
後輩・聖子が出ていて、新曲ですと言って「青い珊瑚礁」を歌いました。
聖子が歌い終わると、満員だった客席の大移動が起こり、客席には2割程度の淳子ファンが残るのみ。
その当時の驚きとは、この光景を見て、聖子大ブレイクの予感がした事です。
[41] 名前:名無しさん :2019/08/17 (土) 23:33:17 No.3145
3145.jpg (286KB)
20世紀アイドルスター大全集から、3ページ目の右中央です。
「プルメリアの伝説〜天国のキッス」から、同い年の中井貴一との2ショットです。

幸い淳子は極度の近眼なので、その光景を目にする事はありませんでしたが、
客席の異様な雰囲気は察していたと思います。そんな経験をしているから、
松田聖子が大ブレイクしていく当時の驚きを、今でも鮮明に覚えているのです。

[42] 名前:名無しさん :2019/08/17 (土) 23:37:03 No.3146
3146.jpg (151KB)
20世紀アイドルスター大全集から、3ページ目の右下です。
これも「プルメリアの伝説〜天国のキッス」からのカットです。
この映画は、角川映画を除くと、80年代女性アイドル映画の中で最大のヒットとなりました。
それは、映画「野菊の墓」とは打って変わって、明るくて快活な聖子のキャラクターが
活かされているからだと思います。
[43] 名前:名無しさん :2019/08/23 (金) 23:21:32 No.3168
3168.jpg (125KB)
20世紀アイドルスター大全集から、3ページ目の左下です。
かくし芸番組と書いてありますが、映画「プルメリアの伝説〜天国のキッス」の前半でも、
このようなコミカルなシーンが積み重ねられ、快適なテンポでストーリーが進みました。
[44] 名前:名無しさん :2019/08/23 (金) 23:35:51 No.3169
3169.jpg (186KB)
20世紀アイドルスター大全集から、3ページ目の左の下から2番目です。
83年夏の映画「プルメリアの伝説〜天国のキッス」に続き、84年夏は映画「夏服のイヴ」に主演。
この映画も大ヒットしました。「プルメリアの伝説」ではハワイ・ロケ、
「夏服のイヴ」ではニュージーランド・ロケ、最後の「カリブ・愛のシンフォニー」では
アメリカのカリブ海・ロケと、雄大な大自然を舞台に、
奔放な聖子の生き方が光る映画になっています。
[45] 名前:名無しさん :2019/08/23 (金) 23:41:20 No.3170
3170.jpg (198KB)
20世紀アイドルスター大全集から、3ページ目の左の上から2番目です。
これも映画「夏服のイヴ」からのカットです。近藤正臣の大人のムードに弱い聖子は、
同世代の羽賀健二を、クラゲ男とケチョンケチョンにけなします。
実生活でも、デビュー前からのファンだったという6歳年上の郷ひろみから、
10歳年上の神田正輝に乗り換えました。
[46] 名前:名無しさん :2019/08/23 (金) 23:56:59 No.3171
3171.jpg (286KB)
20世紀アイドルスター大全集から、3ページ目の左の上から2番目です。
「外国旅行は聖子が一人の女の子に帰るための貴重な時間。」と書いてありますが、
デビューから2年間ぐらいは、日本食の大好きな聖子の口に、食事が合わなくて、
大嫌いだったそうです。82年の正月には、それまで口も聞かず、犬猿の仲と言われていた
三原順子とハワイで偶然会い、海外旅行が嫌いな点で一致し、意気投合しました。
[47] 名前:名無しさん :2019/08/24 (土) 00:11:10 No.3172
3172.jpg (152KB)
46の訂正:3ページ目の左の上から2番目→4ページ目の右上

20世紀アイドルスター大全集から、4ページ目の左の上から2番目です。
神田正輝と出会うきっかけは、映画「カリブ・愛のシンフォニー」の共演でした。
後から見ると、神田正輝との新婚旅行を見ているような気分になってしまいました。
郷ひろみに対し、「生まれ変わったら一緒になろうね。」という名セリフを残して別れた直後です。
[48] 名前:名無しさん :2019/08/24 (土) 00:13:44 No.3173
3173.jpg (201KB)
20世紀アイドルスター大全集から、4ページ目の左上です。

さっさと神田正輝との愛を育んでいた聖子とは対照的に、
郷ひろみは、シングル「ケアレス・ウィスパー」の訳詞で、聖子との愛の破局を、
未練たらしく歌っていました。(最近のBSの番組で、同じくワムの原曲を使った、
西城秀樹の「抱きしめてジルバ」の訳詞との比較として、語られていました。)
[49] 名前:名無しさん :2019/09/01 (日) 00:30:59 No.3212
3212.jpg (298KB)
20世紀アイドルスター大全集から、4ページ目の右下です。
ヨーロッパ旅行のカットです。髪がまだ聖子ちゃんカットなので、81年頃でしょう。
日本食の大好きな聖子の口には、ヨーロッパの食事も合わなかった事でしょう。

なお4ページ目の左下は、他のムック本にも載っている結婚式のカットなので、省略します。
[50] 名前:名無しさん :2019/09/01 (日) 00:49:02 No.3213
3213.jpg (175KB)
85年10月1日発行の、近代映画のムック本「アイドル40年」の、1ページ目の右上です。
80年は、新人アイドルには「ポスト百恵」と言う冠が付きものでした。
しかし、14歳でデビューした百恵に対し、18歳とアイドルとしては遅めのデビューになった聖子。
落ち着いた大人のムードで、実年齢より年上に見える百恵に対し、
泣き笑いの感情を表に出し、明るいキャラで、実年齢より年下に見える聖子。
何もかも百恵とは正反対の聖子が、ポスト百恵のスーパーアイドルになりました。
[51] 名前:名無しさん :2019/09/01 (日) 01:03:03 No.3214
3214.jpg (187KB)
「アイドル40年」の、1ページ目の右の上から2番目です。

なぜ聖子が、ポスト百恵のスーパーアイドルになったのでしょう。
百恵とソックリの歌や外見のアイドルなら、三原順子がいたのに。
それは、70年代と80年代の時代の差によるものだと思います。
73年にデビューした親友でライバルの、桜田淳子と山口百恵。
73年は淳子が、74年は百恵が、75年は淳子が、76年は百恵がと、
交互に女性アイドルのトップになりました。
しかし、76年以降は百恵が独走しました。
[52] 名前:名無しさん :2019/09/01 (日) 01:24:51 No.3215
3215.jpg (215KB)
「アイドル40年」の、1ページ目の右下です。

百恵が70年代後半に独走出来たのは、70年代が、高度経済成長の弊害で公害問題が起こり、
ドル・ショック、オイル・ショック等で景気が暗く、その時代背景にマッチしたキャラクターだった
からだと思います。時代と寝た女と称されたのも、うなずけます。
これに対し80年代は、その末期のバブル経済に向かって、景気が明るくなっていった時代でした。
そんな時代には、明るいキャラのアイドルが好まれ、聖子がスーパーアイドルになったのでしょう。
時代と遊ぶ女と称されました。(ちなみにキョンキョンは、時代のオモチャ。)
淳子ファンだった私は、淳子が成し得なかった事を、事務所の後輩の聖子が
引き継いでくれたようで、嬉しかったです。
[53] 名前:名無しさん :2019/09/01 (日) 01:30:36 No.3216
3216.jpg (163KB)
「アイドル40年」の、1ページ目の左上です。
テニスブームの頃なので、テニスで汗を流しているカットが載っています。
子供の頃は、「アタックN0.1」や「エースをねらえ」というスポ根ものに夢中だった聖子。
このカットは、「エースをねらえ」の岡ひろみの気分でプレイしていたのでしょうか。
中学の3年間は、軟式テニスに所属し、汗を流していました。
[54] 名前:名無しさん :2019/09/11 (水) 01:25:33 No.3249
3249.jpg (140KB)
「アイドル40年」の、1ページ目の左の上から2番目です。
中学校時代はテニス部で汗を流した聖子ですが、デビュー後は忙しく、
テニスをしている暇もありませんでした。親友の岩崎良美が、
ダイエットを兼ねて壁打ちテニスをしていると聞き、二人でテニス合宿をしますが、
学生時代からのブランクが長い聖子は、良美に負けて悔しがっていました。
[55] 名前:名無しさん :2019/09/11 (水) 01:29:32 No.3250
3250.jpg (148KB)
「アイドル40年」の、1ページ目の左の下から2番目です。
河合奈保子や柏原芳恵との3ショットが載っています。
身体は、太めの二人と比べて細身の聖子ですが、
年齢が離れているので、頼れるお姉さんのように見えます。
[56] 名前:名無しさん :2019/09/11 (水) 01:31:32 No.3251
3251.jpg (186KB)
「アイドル40年」の、1ページ目の左下です。
親友の岩崎良美との2ショットが載っています。良美は、聖子の事を本名のノリ(蒲池法子)と
言っているそうです。松田聖子と言う芸名が付く前に、蒲池法子として堀越高校のクラスメートに
なったからでしょう。良美はどちらかというと大人しい性格なので、
さっぱりして男のコっぽい性格のノリと仲良くなったと思います。
同期では、レッツゴーヤングのサンデーズになったのがきっかけで、
浜田朱里とも仲良くなっています。
[57] 名前:名無しさん :2019/09/11 (水) 01:36:07 No.3252
3252.jpg (495KB)
アイドル40年の水着ページ(2分の1ページ)です。
フジテレビの水泳大会の歴史を振り返る番組で、70年代はアイドルのビキニ姿が全盛だったのに、
80年代に入ってからは、アイドルの水着といえばワンピースが主体になった。と言っていました。
その代表として、聖子ちゃんとキョンキョンが取り上げられていました。
キョンキョンは、アイドルとしてはやや大きめのバストで、ビキニ姿も沢山見せていましたが、
聖子ちゃんは、胸に自信が無かったためか、このようなワンピースが多かったです。
(デビュー当時は、ビキニも着ていましたが。)
ちなみに、同じページの下段に載っている三原順子も、ワンピース水着でした。
[58] 名前:名無しさん :2019/09/11 (水) 01:46:58 No.3253
3253.jpg (456KB)
「アイドル40年」の、2ページ目の左上です。
神田正輝と出会うきっかけとなった映画「カリブ・愛のシンフォニー」のロケ中の
休憩時間なのでしょう。ロケ中に愛を育んでいた二人の、アツアツな感じが伝わってきます。
[59] 名前:名無しさん :2019/09/17 (火) 23:44:38 No.3289
3289.jpg (342KB)
「アイドル40年」の、2ページ目の右上です。
映画「カリブ・愛のシンフォニー」の、メキシコ・ロケの2ショットです。
今見ると、10歳年上の神田正輝の方が緊張し、聖子がリードしているように見えます。
[60] 名前:名無しさん :2019/09/17 (火) 23:48:11 No.3290
3290.jpg (491KB)
「アイドル40年」の、2ページ目の下です。
神田正輝と仲良くスクーターで二人乗りをしています。
日本では禁止されていますが、カリブではOKなのでしょう。
[61] 名前:名無しさん :2019/09/17 (火) 23:52:05 No.3291
3291.jpg (490KB)
「アイドル40年」の、3ページ目です。
神田正輝との結婚式における、ケーキカットの瞬間が大きく載っていて、
アイドル40年が締めくくられています。
キョンキョンがジミ婚を流行らせる前、芸能人の結婚式と言えばハデ婚が当たり前でした。
そんな、懐かしい気分にさせてくれる聖子の結婚式のケーキカットシーンです。
[62] 名前:名無しさん :2019/09/18 (水) 00:01:23 No.3292
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89年9月20日発行の、近代映画のムック本「女神の肖像」の水着カット(1枚目)です。
プロフィールに書いてある、高校1年の時に応募した「ミスセブンティーン」で、
もし両親の反対がなく、全国大会で優勝して歌手デビューしていたら、
78年デビューになった事でしょう。
アリス・世良公則・原田真二・渡辺真知子・庄野真代等、ロック&ニューミュージックの全盛時代。
松田聖子は、80年デビューと同じように大ブレイク出来たでしょうか。
「あどけない水着姿にもスターの風格を感じる」
これは大ブレイクした後だから、言える事でしょう。
[63] 名前:名無しさん :2019/09/18 (水) 00:06:17 No.3293
3293.jpg (287KB)
近代映画のムック本「女神の肖像」の水着カット(2枚目)です。
デビュー当時は、ビキニも結構着ていた事が判ります。
57で書いたフジテレビの水泳大会の歴史を振り返る番組での、ワンピース主流説が、
如何にいい加減だったか、良く判ります。
しゃんばらに書いた時、81年のヨットに乗っているカットが最後のビキニ姿と、
教えて下さる方がいました。
[64] 名前:名無しさん :2019/09/25 (水) 22:31:11 No.3328
3328.jpg (497KB)
近代映画のムック本「女神の肖像」の水着カット(3枚目)です。
こちらは、ワンピース水着です。
ママドルと言う言葉を作った聖子は、ママになりながらも現役アイドルを続けましたが、
いつも間にか、元アイドルのママがタレント活動を行う時にも、
ママドルと言われるようになりました。
[65] 名前:名無しさん :2019/09/25 (水) 22:34:10 No.3329
3329.jpg (465KB)
2006年5月10日発売のアイドルデビュー伝説(1980〜82年編)から、
近代映画の80年5月号の、表2グラビアです。
表2グラビアとは、近代映画の表紙の裏で、当時注目の新人アイドルを紹介するページでした。
このカットは、80年代を代表するアイドルである聖子のスレがハリコの時に無かったので、
皮肉の意味を込めて、ハリコの80年代アイドルスレに載せたカットです。
[66] 名前:名無しさん :2019/09/25 (水) 22:41:40 No.3330
3330.jpg (477KB)
アイドルデビュー伝説(1980〜82年編)から、近代映画の80年11月号の、1ページ目です。
3ページに渡って、インタビューが載っています。
この頃は、数多くの音楽祭での賞レースがありましたが、日本テレビ音楽祭は最初の頃なので、
ノミネートだけで泣き、最優秀新人賞の時も泣いたのでしょう。
その内ノミネートだけでは泣がなくなったと思いますが、数多くの音楽祭で新人賞を取りすぎて、
涙が枯れ、有名なウソ泣きのシーンが生まれたのでしょうか。
初コンサートの場所が、日本青年館と大阪厚生年金の中ホールだった事から、
まさかこんなに売れて、人気が爆発するとは、主催者側が考えていなかった事が分かります。

この続きは、2・3に載せているので、しゃんばらに載せた画像は、これで終わりです。
次回からは、新規画像をスローペースで載せて行きます。
[67] 名前:名無しさん :2019/10/11 (金) 01:41:57 No.3409
3409.jpg (488KB)
アイドルデビュー伝説から、近代映画の81年1月号の、7ページ目です。(20の続き)
この時のサンデーズには、田原俊彦もいました。二人とも、サンデーズ在籍中
(80年4月〜81年3月)にトップアイドルに上り詰めて行きました。
翌81年4月から1年間は、田原俊彦と一緒に司会を務めていましたが、
他の仕事が忙しすぎて、欠席する事もありました。
サンデーズ在籍中に、浜田朱里と仲良くなりました。
レッツゴーヤングのディレクターの「実にハキハキしてて、高い声がすごくきれい。」と言う印象、
レッスンを重ねるうちに輝いてくる実力とガッツ、CMオーディションで落とされても、
次回はダメな点を自ら改善する創意工夫が、聖子をスーパーアイドルに押し上げて行きました。
[68] 名前:名無しさん :2019/11/03 (日) 02:23:28 No.3502
3502.jpg (489KB)
アイドルデビュー伝説から、近代映画の81年1月号の、8ページ目です。
ドラマには出ているけれども、歌いたくてうずうずしていた聖子は、初レコーディングの時に、
自分のレコードが吹き込めると感激し、泣いたそうです。
レコードデビューまで紆余曲折していたので、感激もひとしおだったのでしょう。
その初レコーディングでは、いままでのうっぷんを晴らすかのように、大声で思いっきり歌いました。
そんな初レコーディングの様子を、作詞の三浦徳子と作曲の小田裕一郎が語っています。
意外にさみしがり屋で、ホテルで女性マネージャーと一緒の部屋で寝る事や、
仕事では、ひとりでも頑張る根性というあたり、初期の聖子は、
事務所の先輩の淳子と似た部分の性格を持っていた事が分かります。
[69] 名前:名無しさん :2019/11/20 (水) 00:34:29 No.3580
3580.jpg (254KB)
月刊明星の80年3月号に載っている、記事です。
私が持っている雜誌で、聖子が載っている最も古い雜誌になります。
歌手デビュー前、まだ事務所の社長宅にいる頃で、同じ事務所の先輩である太川陽介の恋人役で、
女優として活躍していた頃です。クレジットには、役名:松田聖子、役者名:蒲池法子(本名)に
なっています。所属事務所のサン・ミュージックでは、当初、中山圭子の売り出しに
力を入れていたため、「歌わない歌手」と書いてあります。
[70] 名前:名無しさん :2019/12/10 (火) 02:11:01 No.3666
3666.jpg (494KB)
月刊明星の80年5月号に載っている、記事です。
3月24日発売なので、「裸足の季節」でのデビューが決まっている記事です。
サン・ミュージックが、当初中山圭子の売り出しに力を入れていたのは、
父親が俳優の佐竹明夫、祖父が映画監督というサラブレッドだったからでしょう。
サン・ミュージックとの契約では、事務所の総力を挙げて取り組み、
2年間は他の新人歌手をデビューさせないというほど、優遇していました。
最初は、シャンプーのCMタイアップでデビューする予定でしたが、そのシャンプーに、
日本で認可されていない成分が含まれている事が発覚し、CMが中止となったため、
大々的に売り出す事が出来なくなり、「エクボ」のCMソングを歌う事が決まった
松田聖子に、サン・ミュージックは力を入れる事になりました。聖子と一緒にレッスンを受け、
親友となった中山圭子は、上記の優遇契約を主張しなかったため、トラブルは起こりませんでした。
(以上、中山圭子のウィキより)。80年のオールスター運動会で、聖子が走っている時に転倒し、
その後、後ろのランナーに後頭部を蹴られるシーンは、ハプニングシーンとして有名ですが、
聖子は、そのランナーの名前を口にしませんでした。そのランナーが中山圭子だったからです。
[71] 名前:名無しさん :2019/12/30 (月) 00:34:18 No.3745
3745.jpg (488KB)
月刊平凡の80年6月号の、白黒グラビア&記事です。
新人歌手紹介ページに、ヒカシュー・パティ・柏原よしえ・松田聖子の順に、
各1ページずつ載っていました。アイドルよりも、ミューミュージック系を重視していた事が、
この掲載の順番から分ります。百恵と同じソニーレコードが「第2の百恵」と売り出し中。
と書いてありますが、80年のアイドルは、ポスト百恵を合言葉にするアイドルが大半でした。
柏原よしえの記事にも、百恵と同じスタ誕出身で、デビュー時の年齢も同じ14歳。
うつむいた顔には年に似合わない「成熟した顔」を感じさせる。こんなところも、
百恵のデビュー時と似ている。とポスト百恵をアピールしています。
[72] 名前:名無しさん :2020/01/17 (金) 02:52:31 No.3821
3821.jpg (492KB)
月刊明星の80年6月号には、1ページ半の記事が載っています。その1ページ目(半分)です。
堀越の同級生の内、渋谷哲平(同じ事務所)と、親友の岩崎良美は同い年ですが、
石野真子は1歳年上です。78年デビューで、人気アイドルとして忙しかったので、留年したのかな?
聖子は、卒業してから歌手デビューしたので、学業との両立に苦しまずに済みました。
好きなタイプを、歌手ならジュリーと答えていますが、本当は郷ひろみのファンでした。
ジュリーなら既婚者で、年がかなり離れているので、ファンから反感を買わずに済むと
思ったのでしょう。
[73] 名前:名無しさん :2020/02/10 (月) 05:58:34 No.3932
3932.jpg (488KB)
月刊明星の80年6月号の、2ページ目です。
校則が厳しいカトリックの高校で育った聖子。
「私はつまらないことで、先生とケンカしてもしようがないと観念しちゃって。」
穏便な学園生活を送ります。さらに、学年の「女神」に選ばれた事により、
「イヤでも、イイコにならざるを得なくなっちゃって。」
本当は「ギャハハ」笑いをする快活な性格の聖子ですが、歌番組等でのインタビューで、
優等生的発言をしていたのは、上記のような高校生活で身に付いた事かも知れません。
[74] 名前:名無しさん :2020/03/05 (木) 03:03:47 No.4032
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月刊明星の80年7月号は、6と7に載せています。
月刊平凡の80年8月号には、岩崎良美との対談が載っていますが、
今後、岩崎良美スレに載せる予定です。
これは、月刊明星の80年9月号の、1ページ目です。
「青い珊瑚礁」が売れ始めて、いよいよ聖子ちゃんブームが起き始めた頃です。
故郷の久留米に帰省した時のカラーレポートが、3ページ載っています。
[75] 名前:名無しさん :2020/03/26 (木) 03:29:32 No.4132
4132.jpg (454KB)
月刊明星の80年9月号の、2ページ目です。
2曲目「青い珊瑚礁」は、7月1日発売。初登場86位で、6週間かけてベストテン入りしたので、
9月号発売日は7月23日。この記事を作る時点では、まだヒットしていなかった頃ですね。
でも、聖子ちゃんブームの兆しは見えていたと思います。
その聖子が、故郷の久留米に凱旋した様子を、レポートしています。
子供の頃の、オテンバな性格。ガキンチョのリーダーで、小学3・4年の時は学級委員もやった
聖子の性格は、リーダーシップを取るのにピッタリで、スーパーアイドルになった後は、
自ら仕事のリーダーシップを取るようになって行きました。
[76] 名前:名無しさん :2020/04/13 (月) 23:18:01 No.4234
4234.jpg (176KB)
月刊明星の80年9月号の、口絵のポロシャツ姿です。

(75の続き)
当時の女子の憧れの職業は、スチュワーデス。70年代は、「アテンション・プリーズ」、
80年代は「スチュワーデス物語」の影響も大きかった事でしょう。
聖子も例外ではありませんでした。そのために勉強した英語が、歌手になってから役立っています。
「ノリッペの1組が静かん時は、あ、あいつ学校や住んどるんや、とわかったわ。」
中学の同窓生の言葉から、如何に毎日、教室で歌っていたかが、分かります。
[77] 名前:名無しさん :2020/05/01 (金) 03:14:32 No.4335
4335.jpg (488KB)
月刊明星の80年9月号の、3ページ目です。
「ミス・セブンティーン」の全国大会出場に、猛反対した父。
お役人のカタイ家系なので、優勝する・しないに関わらず、全国大会に出場して、
近所で、娘が芸能界入りを目指しているという目で見られるのが、嫌だったのでしょう。
70年代は、確かに世間では、芸能界に対し汚いイメージがありました。
松田聖子が大ヒットを連発し、爽やかなイメージが浸透していって、
82年組以降のアイドルは、「どうせ落ちるだろうから、受けてもいい」と、
オーディションを受ける時点では、親が同意するようになりました。
法子(聖子の本名)や、レコード会社の説得にとうとう陥落した父は、
法子が上京する時に、一緒について行った、娘思いの父親でもありました。
[78] 名前:名無しさん :2020/05/19 (火) 02:53:05 No.4441
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4・5に載せた、「ザ・ベストテン2004」のムック本から、
2ndシングル「青い珊瑚礁」の歌唱シーンです。
ザ・ベストテンでは、「青い珊瑚礁」は、8月14日に8位で初ランクインしてから、
→5位→5位→4位→2位とランクアップしていき、6週目の9月18日から
3週間1位をキープします。2週目の1位の時に、引退する山口百恵が最後の出演をし、
聖子に「これからも頑張って下さい」とメッセージをしました。
新旧アイドル交代を印象付けるシーンになりました。
[79] 名前:名無しさん :2020/06/08 (月) 04:56:18 No.4553
4553.jpg (491KB)
月刊平凡の80年10月号の、1ページ目です。
同誌の7月号で募集した、100名の読者とのバス旅行のレポートが、
4ページに渡って載っています。
[80] 名前:名無しさん :2020/07/02 (木) 06:02:33 No.4659
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月刊平凡の80年10月号の、2ページ目です。
7月号の募集は5月でしたが、バスツアーは8月なので、2ndシングル「青い珊瑚礁」が、
ヒットチャートをグングン上昇している頃でした。
その熱気を、文章が伝えています。
[81] 名前:名無しさん :2020/11/25 (水) 00:06:45 No.4759
4759.jpg (492KB)
月刊平凡の80年10月号の、3ページ目の上です。
[82] 名前:名無しさん :2020/12/11 (金) 01:19:04 No.4867
4867.jpg (496KB)
月刊平凡の80年10月号の、3ページ目の下です。

11月にCSで、ザ・ベストテンの、聖子が「青い珊瑚礁」で初ランクインした回を、
再放送していました。聖子が、羽田空港で飛行機からタラップで降りる姿を写したいという、
山田チーフプロデューサーの熱意で、飛行機が到着してから、時間調整のために、
空港内を回っていた。という話は聞いていましたが、空港内を回り過ぎてか、
予定より遅くなり、中継の生島ヒロシが、時間調整のため延々と喋っているのは、初めて見ました。
80年の夏休みは、夜のバイトをしていたので、ザ・ベストテンを見ていなかったと思います。
[83] 名前:名無しさん :2020/12/27 (日) 03:05:45 No.4990
4990.jpg (438KB)
80年代前半の週プレのグラビアが載っている文庫写真集「ギャルズ・メイト アイドル72
ベストコレクション」(84年6月15日発行)から、週プレの80年7月22日号の、
1ページ目です。親切に、右下に掲載号が書いてあります。
[84] 名前:名無しさん :2021/01/12 (火) 01:26:45 No.5118
5118.jpg (389KB)
文庫写真集「ギャルズ・メイト アイドル72 ベストコレクション」から、
週プレの80年7月22日号の、2ページ目です。
2ndシングル「青い珊瑚礁」がリリースされた頃です。

1st「裸足の季節」〜3rd「風は秋色」まで、同じ作詞家:三浦徳子、作曲家:小田裕一郎
で、曲調も似ているのに、CMソングだった「裸足の季節」はトップ10に入らず、
ノンタイアップだった「青い珊瑚礁」から、大ヒットが始まったのか。
それは、アレンジャーに大村雅朗を起用した事が一因でしょう。
まだ「青い珊瑚礁」というタイトルが決まる前、大村雅朗は「青い海」という仮タイトルを付け、
曲のイメージを膨らませていました。
[85] 名前:名無しさん :2021/01/27 (水) 02:02:41 No.5232
5232.jpg (496KB)
84年5月10日発行の、GORO特別編集の文庫写真集「素足のアイドルたち・スペシャル」から、
GOROの80年8月14日号に載ったカットの1〜2枚目です。

デビュー曲があまり売れず、2曲目から大ヒットするパターンは、大物アイドルに例が多くあります。
それには2パターンあり、山口百恵や中森明菜のように、1曲目とは曲調もイメージも
大きく変更するパターンと、岩崎宏美や松田聖子のように、1曲目と路線は変えずに2曲目から
大ヒットが続くパターンです。岩崎宏美は、2曲目「ロマンス」の方が、
一般大衆受けする歌詞だったから大ヒットしたのでしょう。

松田聖子は、2曲目「青い珊瑚礁」が、夏にピッタリの曲調だった事。
聖子の張り上げる声の魅力を、上手く引き出せた事。聖子ちゃんカットが、
揺れる動きの振り付けで、好印象を与えた事。この3点が大きかったと思います。
[86] 名前:名無しさん :2021/01/27 (水) 09:53:48 No.5233
聖子ちゃんのパンツが見たい!
[87] 名前:名無しさん :2021/02/11 (木) 02:57:35 No.5358
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文庫写真集「素足のアイドルたち・スペシャル」から、
GOROの80年8月14日号に載ったカットの3枚目です。

2ndシングル「青い珊瑚礁」以降、大ヒットを連発したのは、
アレンジャー大村雅朗の功績が大きいと思います。
6thシングル「白いパラソル」以降、松田聖子の詞の世界観を定着させていった松本隆も、
大村雅朗のアレンジじゃないと、作詞する気になれない。と言っていました。

何より、当時のレコーディング・スタッフの中で、最も聖子と年齢が近かった大村雅朗は、
10歳年上。聖子の兄と同い年であり、同じ福岡県出身という事もあり、
「まーくん」と呼んで実兄のように慕っていました。彼女のデビュー当時からの良き相談相手
であり、レコーディングが上手くいかない時は、二人で気分転換をしていたそうです。
[88] 名前:名無しさん :2021/02/26 (金) 01:30:10 No.5481
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文庫写真集「素足のアイドルたち・スペシャル」から、
GOROの80年8月14日号に載ったカットの4枚目です。

アレンジャー大村雅朗は、八神純子の「水色の雨」(78年秋にヒット)で、
音楽業界で知られる存在になりました。
聖子をスカウトし、聖子と2人3脚で歩んできた、CBSソニーの若松プロデューサーは、
山口百恵の「謝肉祭」(80年3月リリース)を聞き、大村雅朗のアレンジの素晴らしさを
知って、聖子の2曲目「青い珊瑚礁」のアレンジに起用したそうです。

ちなみに、山口百恵のプロデュースで有名になった酒井政利プロデューサーは、
筒美京平を山口百恵に起用しなかった理由を、百恵の暗く重い歌い方が、
筒美京平の曲調と合わないから。と言っていました。
南沙織(酒井プロデューサーが発掘)のアンチテーゼが山口百恵なので、
山口百恵のアンチテーゼである松田聖子は、筒美京平の曲調と合うだろうと言っていましたが、
プロデューサーが違うので、実現しませんでした。
[89] 名前:名無しさん :2021/03/13 (土) 01:34:20 No.5616
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文庫写真集「素足のアイドルたち・スペシャル」から、
GOROの80年8月14日号に載ったカットの5枚目です。

3曲目「風は秋色」で、初めて1位を獲得しましたが、「青い珊瑚礁」と比べて、
疾走感が薄い気がしたのは、「青い珊瑚礁」と似た曲の構成だったので、
2番煎じに聞こえたからだと思っていました。
しかし、それはアレンジが大村雅朗から、デビュー曲「裸足の季節」と同じ信田かずおに
戻ったから。という事に気が付きました。「青い珊瑚礁」が大ヒットする前に、
レコーディングが終わっていたからでしょう。

4曲目「チェリーブラッサム」で、再び大村雅朗のアレンジに戻り、財津和夫作曲のメロディの
疾走感が更に増して、聖子の曲の中では、一番好きな曲になりました。
[90] 名前:名無しさん :2021/03/13 (土) 19:51:54 No.5619
聖子ちゃんのパンツ見たい!
[91] 名前:名無しさん :2021/03/27 (土) 22:38:13 No.5737
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月刊平凡の80年5月号には、2ページに渡って、レッツゴーヤングの新サンデーズの
メンバー4人と、新司会の石野真子による対談が載っています。その1ページ目です。
聖子もトシも初々しい2ショットです。(実は5人並んでいますが)
二人ともデビュー前の時点での対談です。グリコのCMで共演するのは、この半年後です。
このサンデーズがきっかけで、聖子は浜田朱里と仲良くなりました。

サンデーズが出来て4年目と書いてあります。1年目には、狩人・太川陽介・川崎麻世が、
2年目には渋谷鉄平が、3年目には倉田まり子がブレイクし、
この4年目には聖子とトシが大ブレイクします。しかしその後は、ブレイクする新人があまり出ず、「サンデーズに入ると売れない」というジンクスを言われるようになります。
[92] 名前:名無しさん :2021/04/12 (月) 02:08:21 No.5851
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月刊平凡の80年5月号の、新サンデーズの対談の2ページ目です。
レッツゴーヤングの司会は、79〜80年度の総合司会が平尾昌晃。
サブ司会は、男性が太川陽介で、女性は、79年度が榊原郁恵、80年度が石野真子でした。
81年度は、太川陽介が総合司会に昇格し、サブ司会が、男性は田原俊彦、女性は聖子になりました。
[93] 名前:名無しさん :2021/04/17 (土) 08:59:43 No.5889
>>90
オレも!
[94] 名前:名無しさん :2021/04/27 (火) 04:10:04 No.5972
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近代映画の80年6月号の、1ページ目です。
桜田淳子と、聖子・中山圭子という、同じ事務所の先輩・後輩の初顔合わせ対談が載っています。
雑誌の切り取り方が悪く、2ページ目と繋げませんでした。

事務所が最初は中山圭子の売り出しに力を入れ、ある出来事から聖子の売り出しに
力を入れるようになった経緯は、70に書きましたが、
4月後半の発売になるこの雑誌は、まさにその頃なのでしょう。
[95] 名前:名無しさん :2021/05/11 (火) 07:00:14 No.6096
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近代映画の80年6月号の、2ページ目です。
同じ事務所の先輩の桜田淳子と・後輩の聖子・中山圭子の初顔合わせ対談です。
二人(聖子・中山圭子)とも末っ子と、書いてありますが、桜田淳子も末っ子です。
73年のデビュー以来、桜田淳子の事務所(サン・ミュージック)には、
なかなか、女性アイドルの有望新人が出てきませんでした。(強いて挙げれば、香坂みゆき)。
なので、他の事務所の後輩である、榊原郁恵・高田みづえ・石野真子と仲良くしていました。

80年に、二人も有望新人がデビューして、嬉しそうです。
中山圭子は、期待の割には売れず、聖子が予想を遥かに上回る売れ方をしたので、
桜田淳子は、聖子に、自分が経験したトップアイドルとしてのノウハウを、
いろいろと教えて行きました。聖子も、81年前半ぐらいまでは、桜田淳子を頼っていました。
81年3月号の月刊平凡には、桜田淳子と聖子の対談が載っているので、その内載せます。
[96] 名前:名無しさん :2021/05/27 (木) 20:26:41 No.6222
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月刊平凡の80年6月号から、母の日特集として、
「スター17人 自筆で綴る永遠のお母さん」と題した特集が載っています。
その聖子の部分です。6月号は、4月24日頃の発売なので、この文章を書いたのは、
デビュー曲「裸足の季節」がリリースされた4月1日頃でしょう。
「歌の大ヒットをプレゼントしたい」と書いていますが、そのプレゼントはデビュー曲ではなく、
2曲目「青い珊瑚礁」(7月1日リリース。8月18日からトップテン入り。)になりました。

下の文章を読むと、聖子のいつまでも若々しいファッションと、ちょっとドジな性格は、
お母さんからの遺伝と思われます。
[97] 名前:名無しさん :2021/06/11 (金) 22:54:41 No.6324
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月刊平凡の80年10月号に戻って、4ページ目の上です。
デビュー当時の聖子は、やはり男性ファンが主体でした。
[98] 名前:名無しさん :2021/06/26 (土) 19:08:47 No.6429
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月刊平凡の80年10月号の、4ページ目の下です。
100名の読者とのバス・ツアーで、参加した女性はわずか2名。
初期の聖子は、圧倒的に男性ファン主体でした。
70年代の山口百恵が、徐々に女性ファンを増やして、アイドル寿命を延ばしていったのと同様、
聖子も、3年目の「赤いスイートピー」あたりから、女性ファンが増えて行きました。
[99] 名前:名無しさん :2021/07/10 (土) 00:49:52 No.6513
今でも聖子ちゃんのパンツ、
生で見たいです。
[100] 名前:名無しさん :2021/07/12 (月) 01:46:52 No.6527
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夏なので、聖子のビキニ姿を張ります。
月刊平凡の80年7月号の、2ページ目の上です。
7月号は、5月24日発売なので、かなり初期のビキニ姿でしょう。
なお、1ページ目は次のスレ画にします。

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