荻野目洋子2
[1]
名前:名無しさん
:2021/10/11 (月) 04:40:42 No.7084
[31]
名前:名無しさん
:2021/11/04 (木) 22:11:56 No.7228

ハリコの時に、他の方が貼ってくれた画像です。
緑のワンピースを着ています。
髪型がちょっと違って見えるのは、横から風に煽られているからでしょうか。
[32]
名前:名無しさん
:2021/11/04 (木) 22:13:57 No.7229

ハリコの時に、他の方が貼ってくれた画像です。
海が好きな荻野目ちゃんは、浅瀬で横に寝ても、笑顔が素敵です。
[33]
名前:名無しさん
:2021/11/04 (木) 22:15:39 No.7230

ハリコの時に、他の方が貼ってくれた画像です。
これは、画像が小さいのが難点です。
[34]
名前:名無しさん
:2021/11/04 (木) 22:17:37 No.7231

ハリコの時に、他の方が貼ってくれた画像です。
髪型が違うので、ブレイク後、2〜3年経ってからでしょう。
[35]
名前:名無しさん
:2021/11/04 (木) 22:26:49 No.7232

ハリコの時に、他の方が貼ってくれた画像です。
86年12月16日リリースのアルバム「NON-STOPPER」のジャケットです。
「ダンシングヒーロー」〜「六本木純情派」までの4曲のシングル、
オリジナル曲、カバー曲とバラエティに富んだダンス・ナンバーで構成されていて、
87年のアルバム売上で、年間1位を取った大ヒットアルバムです。
もちろん、荻野目ちゃんのアルバムの中でも、最大のヒットです。
[36]
名前:名無しさん
:2021/11/08 (月) 20:04:50 No.7251

スーパー写真塾の88年8月号から、素人が撮った写真です。
髪の毛をショートに戻している事が、分かります。
エネルギッシュにステージ上で踊りまくる荻野目ちゃんに、
ロングヘアーは邪魔だったのでしょう。
[37]
名前:名無しさん
:2021/11/08 (月) 20:06:57 No.7252

2004年発売の「ザ・ベストテン」のムック本から、
インタビューの1ページ目です。
このムック本は、当時年末にザ・ベストテンの復刻版を放送していた関係で、
出版された本だと思います。復刻版は、この2004年まで放送され、
翌2005年に、番組プロデューサー山田修爾が定年退職したため、作られなくなりました。
[38]
名前:名無しさん
:2021/11/08 (月) 20:11:09 No.7253

「ザ・ベストテン」のムック本から、インタビューの2ページ目です。
社長とマネージャーと3人で、全国をキャンペーンで回っていた頃からすれば、
初ランクインの時は、さぞ嬉しかったのでしょう。
荻野目ちゃんが、ライジング・プロダクションで活躍したおかげで、事務所が大きくなり、
観月ありさ・安室奈美恵・SPEEDといった、90年代にメインストリームで活躍する
人気歌手がデビューする事が出来ました。
キョンキョンと仲が良かった事は、このインタビューでも言っています。
同期の故・岡田有希子とも仲が良かったようで、お墓参りに行っているそうです。
本人が素直に言った「先生と生徒の恋愛」を、アイドルがそんな発言しちゃいけないと怒られ、
その反発を歌にぶつけていたそうです。
窮屈なアイドル時代が長く続いていた分、幸せな結婚生活をエンジョイし、
復帰するのがかなり遅くなったのでしょう。
[39]
名前:名無しさん
:2021/11/08 (月) 20:29:26 No.7254

DUNKの84年8月号の、DUNK第二図鑑の1ページ目です。
DUNK第二図鑑は、新人アイドルがモデルになって商品を紹介するコーナーです。
まだ売れる前のアイドルの起用が多く、デビューして間もない荻野目洋子も、
こんな仕事をしていました。
[40]
名前:名無しさん
:2021/11/08 (月) 20:30:44 No.7255

DUNKの84年8月号の、DUNK第二図鑑の2ページ目です。
ホームページを早くから開設していた荻野目洋子は、
当時のパソコン・ゲームも得意だったようで、ピッタリの企画です。
[41]
名前:名無しさん
:2021/11/12 (金) 20:02:11 No.7273

DUNKの84年8月号の、DUNK第二図鑑の3ページ目です。
2ページ目と繋がるページです。
MSXという単語自体が、懐かしい。
[42]
名前:名無しさん
:2021/11/12 (金) 20:03:29 No.7274

DUNKの84年8月号の、DUNK第二図鑑から、
4〜5ページ目は、荻野目ちゃんのカットが載っていないので省略します。
これは6ページ目で、次の7ページと繋がります。
[43]
名前:名無しさん
:2021/11/12 (金) 20:05:05 No.7275

DUNKの84年8月号の、DUNK第二図鑑の7ページ目です。
新人の頃の荻野目ちゃんは、こんなコスチュームプレイもしています。
正統派アイドルフェイスで小顔なので、隊員服っぽいヘルメット姿も、似合います。
[44]
名前:名無しさん
:2021/11/12 (金) 20:06:17 No.7276

DUNKの84年8月号の、DUNK第二図鑑の8ページ目です。
ビデオソフトのカタログも、早々と自身のストーリービデオをリリースする事になる
荻野目ちゃんに、ピッタリの企画です。
[45]
名前:名無しさん
:2021/11/12 (金) 20:07:57 No.7277

DUNKの84年8月号の、DUNK第二図鑑の9ページ目です。
8ページ目と繋がるページです。
ビデオショップと書いてあるので、この頃はまだビデオレンタル店は普及していなかった頃です。
確か、86年頃から急激に普及していった記憶があります。
[46]
名前:名無しさん
:2021/11/16 (火) 18:20:32 No.7293

DUNKの84年8月号の、DUNK第二図鑑の10ページ目です。
アイドルビデオの紹介では、ブレイク後の荻野目ちゃんのアイドル像を予感させるような、
ビート感覚溢れる構図の写真が載っています。
[47]
名前:名無しさん
:2021/11/16 (火) 18:21:46 No.7294

DUNKの84年8月号の、DUNK第二図鑑の13ページ目です。
11〜12ページ目は、荻野目ちゃんのカットが載っていないので省略します。
映画の部では、ヒロインに見立てた荻野目ちゃんが、ブラウン管の中に写っています。
[48]
名前:名無しさん
:2021/11/16 (火) 18:23:03 No.7295

DUNKの84年8月号の、DUNK第二図鑑の14ページ目です。
スポーツの部では、荻野目ちゃんが、プロレスの実況中継をする姿です。
[49]
名前:名無しさん
:2021/11/16 (火) 18:24:19 No.7296

DUNKの84年8月号の、DUNK第二図鑑の15ページ目です。
最後のその他の部でも、ネタが無くなったのか、この頃の古館伊知郎人気が凄かったのか、
また、プロレスの実況中継をする姿です。
[50]
名前:名無しさん
:2021/11/16 (火) 18:25:48 No.7297

DUNKの85年3月号の、1ページ目です。
白黒グラビアとインタビューが、6ページに渡って載っています。
[51]
名前:名無しさん
:2021/11/20 (土) 16:10:11 No.7316

DUNKの85年3月号の、2ページ目です。
3つの誓いは、次回のインタビューコーナーに載っています。
[52]
名前:名無しさん
:2021/11/20 (土) 16:13:50 No.7317

DUNKの85年3月号の、3ページ目です。
3つの誓いは、コンサートツアーの成功と、新曲(無国籍ロマンス)のヒット、
英会話のマスターでした。コンサートツアーは大成功でしたが、他は微妙な感じでした。
この頃は、荻野目ちゃんという愛称は無く、「洋タン」でした。
まだ大ブレイク前なので、姉の荻野目慶子との区別が重要だったからでしょう。
荻野目洋子と南野陽子のブレイク時期が近かったので、
「荻野目ちゃん」「ナンノ」という愛称で、区別されるようになりました。
「青い瞳の性ライフ」は、一度見た事がありますが、荻野目洋子が出演している事には、
気がつきませんでした。その内見直すかも知れません。
「新人さんがどんどん出てきますけど(中略)、自分の事を先にやらなきゃダメだし、
上にはいっぱいいるから。」厳しい立場に置かれつつあっても、
自分を見失わなかった事が、翌年の大ブレイクに繋がりました。
[53]
名前:名無しさん
:2021/11/20 (土) 16:15:03 No.7318

DUNKの85年3月号の、4ページ目です。
京都の神社で、手を合わせて3つの誓いを祈る荻野目ちゃんです。
(やっぱり、荻野目ちゃんと言う方が、しっくりきます。)
[54]
名前:名無しさん
:2021/11/20 (土) 16:16:11 No.7319

DUNKの85年3月号の、5ページ目です。
京都でリフレッシュして2年目に賭ける、希望に満ちた荻野目ちゃんの表情です。
[55]
名前:名無しさん
:2021/11/20 (土) 16:18:21 No.7320

DUNKの85年3月号の、6ページ目です。
「どちらかといえばゆっくりズム重視の私」
アップテンポの曲とは違って、ゆっくり言葉を選んで話す荻野目ちゃんです。
彼女にとって、デビューから走り続けた1年間だった事が、文章から伝わってきます。
仲の良い先輩キョンキョンも、同じくゆっくり話すタイプなので、
ザ・トップテンで、二人並んでランクインした時の会話が、妙に盛り上がらなかった感じでした。
[56]
名前:名無しさん
:2021/11/24 (水) 20:15:24 No.7342

DUNKの84年9月号から、2ndシングル「さよならから始まる物語」の
歌詞が載っているページです。
デビュー曲「未来航海」も、マリンルックで歌っていたので、海が似合う荻野目ちゃんです。
デビュー当時の人気からすれば、「日比谷野音を満パイ」にしたのは、大したものです。
「あと伸びするタイプのアイドル」という予想が、的中しました。
[57]
名前:名無しさん
:2021/11/24 (水) 20:17:31 No.7343

DUNKの84年10月号から、日比谷野音でのコンサート(正確にはファンの集い)の記事です。
雨の中熱唱し、ファンに熱く語りかける荻野目ちゃんと、ファンの心がひとつに結ばれた、
本人にとっても、忘れられないコンサートになったと思います。
[58]
名前:名無しさん
:2021/11/24 (水) 20:29:31 No.7344

DUNKの85年3月号から、4htシングル「無国籍ロマンス」の歌詞が載っているページです。
坂本龍一が、アイドルに曲を提供し始めた、最初の頃の曲です。
[59]
名前:名無しさん
:2021/11/24 (水) 20:50:26 No.7345

DUNKの84年9月号の、「アイドルパンチ」の水着特番からのカットです。
ユッコと2ショットが並んでいます。ユッコの方がスタイルは抜群ですが、
プールでの体を張ったゲームでは、荻野目ちゃんの方が強そうです。
荻野目ちゃん自身、自分は体育会系と言っていました。
レコードセールスで先行していたユッコに、7thシングル「ダンシング・ヒーロー 」で、
やっと追いついた荻野目ちゃん。その時ユッコは、8thシングル「くちびるNetwork」で、
初の1位を取りました。さあこれからという時に、他界したユッコ。
荻野目ちゃんのショックは、相当なものだった事でしょう。
荻野目ちゃんが名古屋で仕事がある時は、今でもユッコの墓参りをしているそうです。
[60]
名前:名無しさん
:2021/11/24 (水) 20:53:46 No.7346

BOMBの85年3月号の、1ページ目です。
ビデオで、ダンスシーンの経験があったから、「ダンシング・ヒーロー」リリース時に、
振り付けを練習する時間があまりなくても、上手く踊れたのでしょう。
ほとんどのアイドルが、デビュー時に水着撮影で海外へ出かけていた時代、
歌手業をメインにしていて荻野目ちゃんは、初海外が2年目になりました。
それでも、パスポートの名前を書く時、手が震えるほど緊張したそうです。
「食事が心配だから、梅干とカンパンを持って行こうっと。」
しっかり者の荻野目ちゃんらしい発言です。
なお、2ページ目はスレ画です。
[61]
名前:名無しさん
:2021/11/28 (日) 19:41:05 No.7366

BOMBの87年4月号に、5ページに渡るインタビューが載っています。
その1ページ目です。「六本木純情派」が大ヒット。
「湾岸太陽族」をリリースする頃で、歌手として、ノリにノっている頃です。
4年ぐらい前に、BSの「堺でございます」と言うトーク番組に、2回に渡ってゲスト出演
していました。育児休業中に練習していたマンドリンを、夫のアドバイスでギターに変えて
練習していたそうです。最後に、渡辺香津美とギターで共演したり、
中学の時以来だという、大好きな山口百恵の「プレイバックPart2」を歌ったり、
今でもカッコ良かったです。
[62]
名前:名無しさん
:2021/11/28 (日) 19:49:34 No.7367

ハリコの時に、他の方が貼ってくれた画像です。
懐古雑誌からの写真と記事でしょう。
この文章に書いてある「ミルク」についても、「堺でございます」で語っていました。
荻野目ちゃんが、夏休みだけの芸能活動にしたため、自然解散したそうです。
「ミルク」が結成される前も、ちびっこ歌自慢のような番組に良く出場して歌っていて、
その頃から、松井直美や長山洋子とも顔見知りだったそうです。
[63]
名前:名無しさん
:2021/11/28 (日) 19:54:04 No.7368

BOMBの87年4月号の、2ページ目です。
堀越高校の卒業式では、芸能コースの人が一番前に並ぶそうです。
堀ちえみが、一旦卒業した事にして、その後1年間補習を受けたのも、
芸能コースの人が欠けずに、卒業式に出席して、一番前に並ぶためだったのでしょう。
同期で同い年の菊池桃子が短大に進学した事は、意識していたようです。
荻野目ちゃんも高校1年までは、大学進学を考えていましたが、
「ダンシング・ヒーロー」の大ヒットから、トップアイドルの仲間入りをしたので、
諦めたのでしょう。最初からトップアイドルだった人とは違い、
大ヒットを連発する事によって、「仕事の楽しさと厳しさがわかってきた。」と言っています。
[64]
名前:名無しさん
:2021/11/28 (日) 20:06:33 No.7369

ハリコの時に、他の方が貼ってくれた画像です。
これも、懐古雑誌からの写真と記事でしょう。
スカートのファスナーが開いても、直そうとせずに歌い続ける荻野目ちゃんの姿から、
本当に歌う事が大好きで歌手になった事が、よく分かります。歌を中断してまで、
衣装を直す気になれなかったのでしょう。歌手を目指していたのに、アイドルの中に
カテゴライズされる事に、困惑した荻野目ちゃんらしいエピソードです。
[65]
名前:名無しさん
:2021/11/28 (日) 20:11:45 No.7370

BOMBの87年4月号の、3ページ目です。
「学生時代の苦しみって、もう2度と経験すること、ありませんもんね。」
夫と最初に会ったのも、高校生の頃(同級生)だったと、「堺でございます」で言っていました。
お互い好きだったけれど、事務所から、「付き合うのなら、結婚して引退する事。」
という条件を出されて、悩んだ末、まだ結婚するには若すぎると思い、歌手を続けたそうです。
アイドル歌手人気がピーク時の頃なので、スキャンダルを恐れた事務所の判断でしょう。
荻野目ちゃんと二人三脚でやってきた事務所(ライジング・プロダクション)なので、
もしこの時引退を選択していたら、後の安室奈美恵やSPEEDも
誕生していなかったかも知れません。
人気が落ち着いた90年代後半に、再び偶然に会い、付き合っている内に結婚に至りました。
[66]
名前:名無しさん
:2021/12/02 (木) 19:52:45 No.7389

ハリコの時に、他の方が貼ってくれた画像です。
シングルとしては初のスローバラードである、88年7月21日リリースの16thシングル
「DEAR〜コバルトの彼方へ〜」のレコード・ジャケットです。
この曲を機に、ダンス・ナンバーばかりだった荻野目ちゃんのシングルが、
様々な曲調のシングルに変化しました。
ちなみに、スローではないバラード「心のままに」(858月5日リリース。
6枚目のシングル)の後、「ダンシング・ヒーロー」から始まる、
ダンス・ナンバーの曲が続きました。荻野目ちゃんにとって、バラードは、
シングルの曲調を変えるきっかけになっていると、思います。
[67]
名前:名無しさん
:2021/12/02 (木) 20:17:12 No.7390

BOMBの87年4月号の、4ページ目です。
歌がヒットして、「ザ・ベストテン」や「紅白歌合戦」に出られるようになった事より、
中国(上海)でのコンサートの方が、印象深かったそうです。
まだ「ダンシング・ヒーロー」で大ブレイクする前であり、1万2千人の前で歌うのは
初めてだったからでしょう。中国でのコンサートを成功させた自信が、
その後、大ヒットを連発してトップアイドルに駆け上がっていく原動力になったかも知れません。
中国コンサートの模様は、前スレ84に載せてあります。
https://gakinko.net/bbs2/80nen35/img/6991.jpg 参照
「私、アイドルって言葉の響き、すごく好きなの。」
荻野目ちゃんぐらい歌が上手ければ、アーティストと呼ばれても不思議ではありませんが、
小学生の頃から歌が大好きで、山口百恵等のアイドルに憧れていた頃の、
初心を忘れない、荻野目ちゃんらしい発言です。
仲の良い先輩アイドル・キョンキョンが、「なんてったってアイドル」を大ヒットさせた時は、
心強く思った事でしょう。奇しくも、「ダンシング・ヒーロー」と
「なんてったってアイドル」は、同じ発売日でした。
[68]
名前:名無しさん
:2021/12/02 (木) 20:23:16 No.7391

BOMBの87年4月号の、5ページ目です。
荻野目ちゃんもキョンキョンも、「アイドルは元気が出る存在」という、同じ考え方をしています。
コンサートで激しく動きながら歌いまくる姿とは違い、素顔は大人しい、
普通の価値観を持った女の子という面でも、共通しています。
「結婚するなら30代後半か40代でいい。」デビューしたての新人が、
こんな発言をするのは珍しいですが、実際にはそれより少し早い32歳で結婚しました。
「基本的には結婚しても仕事を続けたいと思ってるんです。」
10年ぐらい育児休業していましたが、その後仕事に復帰しています。
復帰しても、82年組のようにママドルを売りにせず、ファンの夢を壊さない仕事の仕方が
出来るのは、育児休業中でも、自身が運営しているホームページで、
ファンの声をこまめに拾い上げていたからだと思います。
[69]
名前:名無しさん
:2021/12/02 (木) 20:27:14 No.7392

スーパー写真塾の85年11月号から、素人が撮った写真の右上です。
このすぐ後、大ブレイクするとは本人も予想していなく、
カメラ小僧の格好の標的になっていた頃です。
[70]
名前:名無しさん
:2021/12/02 (木) 20:30:54 No.7393

スーパー写真塾の85年11月号から、素人が撮った写真の右中央です。
荻野目ちゃんに、パンチラカットが多いのは、アイドルとしての意識より、
歌を聴かせる歌手という意識の方が、高かったからでしょう。
[71]
名前:名無しさん
:2021/12/06 (月) 21:03:40 No.7417

スーパー写真塾の85年11月号から、素人が撮った写真の右下です。
やや緊張気味の表情の荻野目ちゃんです。「同期の他のアイドルの方は、
上手に笑顔を作って、可愛いのに、私だけ上手く笑顔が作れなかった。」と、
後に言っていましたが、このカットを見る限り本当ですね。
[72]
名前:名無しさん
:2021/12/06 (月) 21:13:47 No.7418

スーパー写真塾の85年11月号から、素人が撮った写真の左です。
素人の頃から、「スカートは、めくられてこそ女の子のステータスが上がるので、
見せてもいいようのパンツを履いていた。」と、言っている伊代ちゃんと、
荻野目ちゃんは、正反対の性格なのでしょう。プロのアイドル歌手になっても、
スカートが風のいたずらでめくれた時、地味なパンツを履いていました。
[73]
名前:名無しさん
:2021/12/06 (月) 21:17:09 No.7419

DUNKの86年6月号から、テレビニュースコーナーです。
7thシングル「ダンシング・ヒーロー」の大ヒットで、一気にスターダムに駆け上った
荻野目ちゃんは、ドラマでも大活躍。
初レギュラーにして連ドラ初主演となる、「早春物語」に主演しています。
映画版は、かなり後になって見ましたが、原田知世が女優開眼したような素晴らしい出来でした。
荻野目ちゃんのドラマ版は、再放送されていないので、見ていませんが、
この難しい役、上手く演じられたのでしょうか。
[74]
名前:名無しさん
:2021/12/06 (月) 21:23:07 No.7420

BOMBの86年2月号の記事です。
「ダンシング・ヒーロー」リリース時のイベントが載っています。
4年ぐらい前、森口博子が司会をしているBSのアニメソングを歌う番組に、
荻野目ちゃんがゲスト出演していました。堀越で同級生だった森口博子が、
直接、荻野目ちゃんに出演交渉し、快諾したそうです。
堀越の修学旅行では、バスの中で「ダンシング・ヒーロー」を歌う荻野目ちゃんに、
みんな大喝采を送っていたとの事です。
ソロ歌手デビュー前に、アニメ版「みゆき」で声優デビューした荻野目ちゃんは、
アニメソングも大好き。「ダンシング・ヒーロー」が洋楽のカヴァーだった事もあり、
カヴァーを歌う秘訣を公開していました。それは、オリジナルをあまり聞かない事。
オリジナルを聞き過ぎると、それに影響されて、自分流に歌えなくなるそうです。
そんな荻野目ちゃんが選んだ曲は、「魔法使いサリー」で、カントリー風に歌っていました。
やっぱり荻野目ちゃんは、歌う時が一番輝いています。
[75]
名前:名無しさん
:2021/12/06 (月) 21:32:05 No.7421

BOMBの84年8月号から、2ndシングル「さよならから始まる物語」の広告です。
この曲も、デビュー曲「未来航海」と同様、アップテンポのキャッチーなメロディーに、
荻野目ちゃんの、どこまでも伸びるハイトーンボイスが心地よく、
素晴らしい曲でした。暗いイメージがするタイトルで、ソンをしている気かします。
[76]
名前:名無しさん
:2021/12/10 (金) 21:10:36 No.7441

BOMBの84年8月号の、インタビューです。
岩崎さんちは、姉の方が活躍しましたが、荻野目家では、妹の方が活躍しました。
荻野目という苗字は、4歳年上の姉・慶子の活躍で世間に知られましたが、
その頃から、洋子も小学生ユニット「ミルク」で活躍していました。
好きなタイプ「いっしょにいて面白い人で包容力のある人がいいですね。」
「友達にいわせると、ほとんど私はメンクイじゃないらしいから。」
近年テレビ出演した時、夫の辻野隆三がビデオ出演していて、なるほどと思いました。
[77]
名前:名無しさん
:2021/12/10 (金) 21:13:39 No.7442

BOMBの84年11月号の、1〜2ページ目です。
歌手になるのが目的でソロデビューした時、たまたまアイドル全盛時代だったので、
アイドル扱いされた。と言っている荻野目ちゃん。
いかにもアイドルらしい、意味の無さそうな文章が付いています。
アイドルらしい可愛らしさにあふれている表情ですが、
心の中は、初LPの好評が嬉しかったに違いありません。
[78]
名前:名無しさん
:2021/12/10 (金) 21:20:21 No.7443

BOMBの84年11月号の、3ページ目です。
12月号の巻頭特集は、前スレ(アドレスは、このスレの2スレ目にあり)に載せています。
[79]
名前:名無しさん
:2021/12/10 (金) 21:24:29 No.7444

シュガーの84年11月号から、レコーディング風景です。
11月5日にリリースされた3rdシングル「ディセンバー・メモリー」は、
最初、「雨とジャスミン」という仮題だった事が分かります。
キョンキョンが刈り上げにした84年、アイドルは次々にショートカットにしましたが、
キョンキョン以外に、ショートカットが一番似合っていたのは、荻野目ちゃんだと思います。
[80]
名前:名無しさん
:2021/12/10 (金) 21:40:41 No.7445

2004年12月20日発行の「ザ・ベストテン」のムック本から、
10thシングル「六本木純情派」の歌唱シーンです。
近年再ブレイクした「ダンシング・ヒーロー」とともに、荻野目ちゃんの代表曲で、
2作ともロングヒットしましたが、不思議な事に、2作ともオリコンでも、ザ・ベストテンでも、
1位になっていません。大好きな11thシングル「湾岸太陽族」も、
「六本木純情派」の勢いで1位になるかと思えば、これも叶わず、
オリコン初1位は、地味な印象の12thシングル「さよならの果実たち」でした。
2〜3か月前のNHKの番組で、「六本木純情派」のタイトルの由来を、作詞の売野雅勇が
語るコーナーがありました。当時、新曲の打ち合わせをしたのが、繁華街になって行った
六本木で、六本木と正反対の純情娘である荻野目ちゃんとの対比を、狙ったそうです。
複数形の方がいいとのスタッフの進言で、「派」が加わりました。番組では、
荻野目ちゃんもゲスト出演。ギターを弾きながらこの曲を歌うのは、テレビでは初めてだった
そうです。歌詞の内容を伝えたかったから、アコースティックにしたのでしょう。