早見優
[1]
名前:名無しさん
:2019/06/08 (土) 00:00:33 No.2820

20世紀アイドルスター大全集・80年代編の、1ページ目の中央です。
着物姿から、84年の映画「零戦燃ゆ」のカットかな?と思いましたが、
DVDパッケージに写っている優は、もっと髪が長かったので、デビュー当時の写真でしょう。
その「零戦燃ゆ」は、バイリンギャルでスタイルもいい優の長所が、全く活かされていません。
でも、どんな時でも前向きに生きる姿勢や、困難を乗り越える強い意思は、
上手く活かされていました。
[31]
名前:名無しさん
:2019/07/30 (火) 22:29:23 No.3073

BOMBの82年2月号の、1ページ目です。
3月に日本に来たとの事なので、デビュー(4月21日)直前の82年3月ではなく、
81年の3月である事が、雑誌の号数で分かります。
デビューして忙しくなってから、堀越高校の1年に転校したので、
日本に来てからの1年数ヶ月間は、アメリカンスクールに通っていました。
96年に結婚する夫とは、アメリカンスクールに通っていた頃に、初対面しています。
幼稚園の時にファーストキスをしたと言っていますが、この後載せる近代映画の記事に、
詳しく書いてあります。
[32]
名前:名無しさん
:2019/08/16 (金) 23:51:46 No.3140

BOMBの82年2月号の、2ページ目です。
アメリカンスクールで、男女4人でグループ交際する予定が、優と将来の夫となる彼を残し、
他の二人が気をきかせて?去り、二人だけの交際が始まります。
しかし優は、1年で堀越高校へ転校し、事務所から男女交際は見つからないように言われ、
彼との交際の機会がなくなりました。
[33]
名前:名無しさん
:2019/09/02 (月) 23:35:08 No.3229

BOMBの82年6月号の、4ページ目です。
グァムで、母親代わりに優を育てた祖母は、優が大学へ進学する事を希望していました。
その祖母が亡くなったのが、優17歳の時です。
祖母の希望を叶えるため、忙しいアイドル時代も、堀越学園に通いながら受験に備えた優。
事務所の反対を押し切り、1年間浪人して、上智大学に合格した優は、立派です。
その上智大学で、優と将来の夫となる彼に再会し、デートを重ねる事になります。
[34]
名前:名無しさん
:2019/09/19 (木) 00:36:41 No.3300

BOMBの82年8月号の、1ページ目です。
将来の夫となる彼の他にも、ボーイフレンドが何人かいた優。
他の人を自分の家に呼ぶと、母親がその人の前で、彼(将来の夫)の方がいいのに。
と言って、優とボーイフレンドを困らせていたそうです。
優が25歳の時に母が他界した時も、アフリカ・ロケに行っていた優の代わりに、
彼(将来の夫)が、そばにいました。
[35]
名前:名無しさん
:2019/10/05 (土) 23:47:10 No.3385

BOMBの82年8月号の、2ページ目の右の2カットです。
先日、「いまでもファンです」という番組に、YU'Sクラブ(優の親衛隊)のメンバーと一緒に
出演していました。最盛期には100人近くいたというYU'Sクラブですが、
おニャン子クラブ等の台頭により、4人にまで減ってしまったとの事。
花の82年組について、「明菜ちゃんやキョンキョンは別格でした。
でも伊代ちゃんやちえみちゃんには離されたくない、おいて行かないで。」
と話しているYU'Sクラブのメンバーの、当時の本音が聞けました。
(さすがに、優と仲良しの秀美の名前は、挙げていませんでした。)
[36]
名前:名無しさん
:2019/10/18 (金) 00:55:47 No.3464

BOMBの82年8月号の、2ページ目の左〜3ページ目です。
母親が他界した後、母親と離婚していた父と会う機会が多くなり、その父も
アメリカンスクールで一緒だった最初の彼を気に入り、父に背中を押され、結婚を決意したそうです。
優の育ったハワイで、父が歌うジャズが流れるファミリー的なムードの96年の結婚式は、
前年にキョンキョンが行ったジミ婚とはまた別の、いい式になったと思います。
81年に出会ってから、紆余曲折の末、15年後に結婚した優。
86年に堀越の補習で知り合うも、歌手を続けるため一度別れた後、15年後に結婚した荻野目洋子。
88年にバックのドラマーと付き合い始め、14年後に結婚した浅香唯。
人気アイドルを長く続けた人は、結婚まで彼と長く付き合うのが、夫婦円満になる秘訣のようです。
[37]
名前:名無しさん
:2019/11/13 (水) 23:31:32 No.3551

BOMBの82年9月号には、表紙・裏表紙・ピンナップの他に、
40ページの大特集が載っています。これは、表紙です。
[38]
名前:名無しさん
:2019/12/03 (火) 01:34:12 No.3635

BOMBの82年9月号の、裏表紙です。
ひょっとこに似せたキュートな表情が可愛いですが、
グァム・ハワイ育ちの優は、ひょっとこを知らなかったかも知れません。
「アイドルがなぜ、こんな事までするの?」と言っている声が、聞こえてきそうです。
[39]
名前:名無しさん
:2019/12/24 (火) 03:07:01 No.3722

BOMBの82年9月号の、9ページ目です。
ここからモノクロの記事が始まります。
優のキャッチフレーズは「少しだけオトナなんだ」であり、自己紹介する時、
舌を噛みそうで嫌だったと、後に言っていました。
ここに書いてあるタイトル「トロピカル美少女」の方が、キャッチフレーズとして
相応しいと思いますが、82年は女性新人アイドル激戦の年だったので、
よりユニークなキャッチフレーズにしたのでしょう。
[40]
名前:名無しさん
:2020/01/13 (月) 02:56:43 No.3801

BOMBの82年9月号の、10ページ目です。
3歳半まで熱海で生まれ育った優。本名は、井上一美ですが、熱海から離れる時に両親が離婚し、
母と一緒に育ったので、母の苗字である舘野一美にしていたと思います。
その母は若い頃、フランスへ渡った初めての日本人モデルだったそうです。
父はジャズ・シンガーなので、母の美貌と父の音楽センスを受け継いで産まれたのでしょう。
初産だった一美は、出産予定より半月も遅い過熟児でした。その分しっかりしていたそうで、
現在までのしっかり者のイメージがある優は、産まれた時からの性格なのでしょう。
[41]
名前:名無しさん
:2020/02/01 (土) 01:08:58 No.3890

BOMBの82年9月号の、11ページ目です。
おばあちゃんがグァムに転勤になった事がきっかけで、優と母もグァムに住む事になりました。
母と優は姉妹のような関係で、五カ国語をマスターしているスーパーおばあちゃんが、
母替わりになって、優を教育していたそうです。学校でも家でも英語で話していたので、
日本語を忘れかけていた時、厳しく日本語を教えたのもおばあちゃんでした。
母親になった優が、娘に英語と日本語の両方で接しているのは、
おばあちゃんの教えだと言っていました。
[42]
名前:名無しさん
:2020/02/27 (木) 03:06:44 No.4000

BOMBの82年9月号の、1ページ目です。
(41の続き)
そんな大切なおばあちゃんは、優がデビューして3年目、17歳の時に亡くなりました。
五カ国語をマスターしていたスーパーおばあちゃんのためにも、
大学へ進学する事を決めた優。忙しいアイドル生活を送る中、受験勉強に励み、
1年遅れですが、見事上智大学へ進学しました。
[43]
名前:名無しさん
:2020/03/19 (木) 01:39:24 No.4100

BOMBの82年9月号の、2ページ目です。
5曲目「夏色のナンシー」が大ヒットし、初めてザ・ベストテンにランクインした優。
黒柳徹子に、「英語がペラペラなんですって。英語で話してみて。」と言われ、
流暢な英語を話した優。ところが、「アイドルのくせに英語を話すなんて、生意気だ。」と言う苦情が、
TBSに殺到したそうです。元祖バイリンギャルは、なかなかお茶の間には受け入れられませんでした。
[44]
名前:名無しさん
:2020/04/07 (火) 03:33:26 No.4193

BOMBの82年9月号の、3ページ目です。
久しぶりにハワイへ里帰りした優。
この後、83年には、5枚目のシングル「夏色のナンシー」が大ヒットし、
その年の紅白歌合戦に初出場します。紅白は、ハワイでも放送されているので、
翌年の里帰りでは、紅白を見たハワイの知人たちに、「Congratulations!」と祝ってもらったそうです。
[45]
名前:名無しさん
:2020/05/04 (月) 02:37:36 No.4352

BOMBの82年9月号の、12ページ目です。
早見優が、すごく無口で内気な女の子になったのは、転校が多かったからでしょう。
グァムの幼稚園→日本(立川)の小学校(1年の前半のみ)→グァムの小学校
→ハワイの私立小学校(3年)→ハワイの公立小学校(4年〜)と、
小学校だけで3回も転校しています。
[46]
名前:名無しさん
:2020/05/22 (金) 01:55:05 No.4458

BOMBの82年9月号の、13ページ目です。
百恵ちゃんや淳子ちゃんは知っているけど、ハワイは日本のテレビ番組が遅れて放送されるので、
聖子ちゃんやトシちゃんは知らなかった。と言っています。
「キカイダー」は、日本では72〜73年放の放送ですが、ウィキで調べると、
ハワイでは74年から送され、大人気を博したそうです。
日本より2年ぐらい遅れて放送されるので、聖子ちゃんやトシちゃんは知らないはずですね。
「早見優って、肌黒ぇな」と、後に堀越のクラスメートに言われるほど、真っ黒に日焼けしたのは、
1日中ビーチサイドで遊んでいたからだそうです。
[47]
名前:名無しさん
:2020/06/11 (木) 03:21:12 No.4570

BOMBの82年9月号の、4〜5ページ目です。
両手を大きく広げている姿が、開放的な性格の優にピッタリです。
[48]
名前:名無しさん
:2020/07/05 (日) 07:45:38 No.4671

BOMBの82年9月号の、4ページ目の右上の拡大版です。
優の長い脚が映えるカットです。
[49]
名前:名無しさん
:2020/11/26 (木) 23:07:50 No.4766

BOMBの82年9月号の、14ページ目です。
日本の中学性に相当する、ハイスクール7〜9年生の頃は、また私立に転校しました。
でもこの時代が、優のとっては最も楽しかったそうです。
なお、ハワイに引っ越ししたのは、母の仕事の関係でしたが、
その仕事は、ツアーコンダクターだったそうです。
[50]
名前:名無しさん
:2020/12/11 (金) 23:50:55 No.4875

BOMBの82年9月号の、15ページ目です。
中2の頃、ギターを習い始め、ロックやソウルが大好きになり、
バンドを作ってギターとボーカルを担当するつもりだった優。
ところが、エレキギターの教室にも、フォークギターの教室にも入れず、
仕方なくクラシックギターの教室に入りますが、好きでもない事には熱中出来ず、ギブアップ。
それでもバンドへの夢は消えがたく、アイドルとしてスカウトされても、
ロックやソウルをやりたいと、主張していましたが、叶いませんでした。
ロックっぽい曲が主流になったのは、デビュー3年後ぐらいからです。
[51]
名前:名無しさん
:2020/12/30 (水) 02:58:43 No.5014

BOMBの82年9月号の、6ページ目です。
こんなにハワイの各ビーチで遊んでいたとは、羨ましいです。
ハワイでスカウトされた経緯は、16ページ目に書いてあるので省略しますが、
ハワイでの楽しい暮らしを選ぶか、歌手として活躍する道を選ぶか、相当悩んだそうです。
スカウトされたのは80年の6月で、優がまだ13歳の時でした。
その年の夏休みに、何もする事がなく、ゴロゴロしているうちに、
歌手への道にチャレンジする事に決め、スカウトしたモデル・エージェンシーに電話しました。
[52]
名前:名無しさん
:2021/01/14 (木) 04:31:54 No.5134

BOMBの82年9月号の、7ページ目です。
最初に海外(グァム)に引っ越した時、まだ3歳だった優は、周りの子供が話す言葉が分からず、
泣いてしまったそうです。その時、41で書いたスーパーおばあちゃんが、
みんなは英語で話しているから、分からないのよ。あなたも英語を覚えなさい。
と言って、勉強させました。英語ばかり話していると、日本語(特に敬語)が疎かになるので、
日本語も教えました。ママになった優が、二人の娘に、英語と日本語の両方を教えているのは、
スーパーおばあちゃんが、そのモデルだった。と言っていました。
[53]
名前:名無しさん
:2021/01/25 (月) 20:22:43 No.5217

コレでたっぷりヌキました。
[54]
名前:名無しさん
:2021/01/27 (水) 09:56:40 No.5234
早見優さんのパンツ見たい!
[55]
名前:名無しさん
:2021/01/29 (金) 03:58:22 No.5251

BOMBの82年9月号の、16ページ目です。
デパートのエレベーターで、6階から地下1階へ移動する間にスカウトされた事は、
最近でもよく話していますが、より詳しく書いてあります。
優が通っていた学校は、美人ぞろいで、モデルをしている娘も多かったそうです。
モデルの友達が多い中、芸能界入りを決心したのは、
モデルではなく歌手としてデビュー出来る事でした。
ハワイの優に会いに行った相沢正久は、サンミュージック社長(当時)の息子です。
山口百恵と三原順子をミックスしたような顔立ちと言われても、送られた写真からは、
想像が付きません。優の顔の魅力は、縦長の美人顔で、目が大きくて澄んでいるところです。
山口百恵や三原順子とは真逆な感じがするのですが。でも、優の初期のシングル
(2〜4曲目)が、マイナー調の曲で、バラードが多かったのは、
山口百恵や三原順子に似ているというスタッフのイメージが、反映されていたからでしょう。
>>53風のいたずらのカット、ありがとうございます。
[56]
名前:名無しさん
:2021/02/13 (土) 06:13:17 No.5376

BOMBの82年9月号の、8ページ目です。
(16ページ目の続き)
母は、歌手になる事に大反対でした。母のモデル時代に、嫌な思い出があったのか?
それとも、優の父親はジャズ歌手なので、離婚した原因が歌手だったためなのか?
ここでもスーパーおばあちゃんが、母を説得し、無事歌手への道を進ませてくれました。
松田聖子に芸能界の事を教えたのは、事務所の先輩の桜田淳子でしたが、
早見優の場合は、同じく事務所の先輩の太川陽介でした。岡田有希子の時は、
松田聖子も早見優も忙しかったので、芸能界の事を教えるアイドルが、いなかったのかな?
早見優は、松田聖子のステージを見て勉強しなさいと言われましたが、
あまりにもレベルが高すぎて、無理だと思ったそうです。
[57]
名前:名無しさん
:2021/02/28 (日) 04:59:49 No.5498

BOMBの82年9月号の、17ページ目です。
この時代は、サン・ミュージックも大手の芸能事務所になり、
レッスン生の教室を持っていたんですね。ジャニーズ事務所の女の子版みたいです。
80年代は、男性アイドルはジャニーズ事務所、女性アイドルはサン・ミュージックと、
言われていました。
「やれば出来るくせに、何人かいる中で、わざと間違えて注目をひこうってところがあって、
いい意味で目立ちたがり屋でしたね。」と、ダンスの先生は言っていますが、
優の場合は、一人っ子で、転校も多かったので、早く周囲に溶け込みたくて、
そういう行動をとったと思います。他のレッスン生の証言からも、そう思いました。
[58]
名前:名無しさん
:2021/03/17 (水) 02:25:18 No.5650

BOMBの82年9月号の、3つ折りピンナップです。
こんがりと小麦色に焼けた、優のビキニ姿です。
当時は、キョンキョンやちえみのファンから、「色黒いな。早見優って。」と言われていましたが、
歌番組のスタッフからは、「南沙織さんのようだ。」と言われていたそうです。
小麦色の肌で、英語がペラペラだからでしょう。
大学進学の際、上智大学を選んだのも、英語がペラペラの南沙織やアグネス・チャンが
進学していたからでしょう。
[59]
名前:名無しさん
:2021/03/30 (火) 20:17:29 No.5757

BOMBの82年9月号の、18ページ目です。
81年3月に、歌手になるため来日したので、1年4か月ぶりのハワイへの里帰りです。
いとこの二人もハワイにきていたので、昔話で盛り上がっています。
6、7歳の頃の、イマジネーションの世界で、ドリーム・ランドに連れていった話は、
まるでピーターパンの世界のようです。
[60]
名前:名無しさん
:2021/04/15 (木) 02:28:21 No.5873

BOMBの82年11月号の、1ページ目です。
「ザ・ベストテンにランクインすると、雑誌グラビアもカラーページが多くなる。」
と数年前のテレビで、優が言っていました。
確かに82年は、まだザ・ベストテンにランクインする前なので、カラーグラビアが少ないです。
この号のカラーグラビアも、9月号に載せきれなかったカットのようです。
[61]
名前:名無しさん
:2021/04/30 (金) 05:41:42 No.6001

BOMBの82年9月号の、19ページ目です。
ハワイの知人・友人の証言が、いろいろ載っているページです。
勉強のできる子だった事を、家庭教師が証言しています。
後に上智大学に進学するほどだから、やはり頭が良かったのでしょう。
キョンキョンと明菜が対談するラジオ番組では、優ちゃんと寛子(三田)ちゃんは、
いつも大きなメガネをかけて本を読んでいた。と言っていました。
本といえば、ハワイの本屋さんでは、日本の雑誌が遅れないで入荷されるそうです。
テレビ番組は、遅れて放送されるのに。
[62]
名前:がきーん
:削除 No.6003
がきーん
[63]
名前:名無しさん
:2021/05/15 (土) 12:52:51 No.6125

BOMBの82年11月号の、2〜3ページ目です。
ハワイでは、ビキニが普段着だったという優ちゃん。
ハワイに帰省した時も、もちろんビキニで、ローラースケートで遊んでいます。
こういう姿から、スポーツ少女というイメージが、定着するんでしょう。
水泳大会では、泳がないで歩いている伊代ちゃんより遅かったほど、運動は苦手なのですが。
[64]
名前:名無しさん
:2021/05/30 (日) 23:21:07 No.6243

BOMBの82年9月号の、20ページ目です。
グァムからハワイに引っ越しした時は、最初はハワイに馴染めなかったそうですが、
11階にあるマンションの窓から見える景色を見て、ハワイが気に入った。と言っていました。
今は、優と仲の良かった秀美が、ハワイのマンションから、景色を楽しんでいる事でしょう。
(3年前に、薬丸がハワイの自宅公開をしていました。)
[65]
名前:名無しさん
:2021/06/13 (日) 15:20:13 No.6342

BOMBの82年11月号の、3ページ目の上の拡大版です。
運動神経はあまりなかった優ですが、ハワイではローラースケートで移動していたそうです。
ビキニでローラースケートに乗っても、全く違和感がなく健康的に見えます。
さすがハワイ育ちという感じです。
[66]
名前:名無しさん
:2021/06/21 (月) 18:24:35 No.6402

今回からしばらくは、4日に1度ぐらいにペースアップして、2枚づつ貼って行きます。
BOMBの82年9月号の、21ページ目です。
日本に戻って、レッスンを受けていた頃は、叔母の家に住み、
デビュー当時からは、日本に戻った母と同居していたので、
地方から出てきた新人が、社長宅に下宿するシステムのサンミュージックとしては、
異例の扱いとなります。
桜田淳子・松田聖子・岡田有希子・酒井法子と、社長宅に下宿していた人気アイドルが、
その後、様々な問題を起こす中、優だけが順調な芸能人生を歩んできたのは、
社長宅に下宿しなかった事と、何か関係があるのでしょうか。
[67]
名前:名無しさん
:2021/06/21 (月) 18:38:24 No.6403

BOMBの82年11月号の、4ページ目です。
(66の続き)
歌手になる事に大反対していた(55参照)母が、
優がアイドル歌手として順調に歩みだした途端、日本に帰国して、優と一緒に住むとは、
ちゃっかりしています。優が、母とは姉妹みたいな関係だった。と言っている通りです。
でもそのおかげで、社長宅に下宿しなくて済んだので、母に感謝だと思います。
[68]
名前:名無しさん
:2021/06/25 (金) 19:22:47 No.6424

BOMBの82年9月号の、22ページ目です。
マル文字で書かれている優のハワイ自筆日記です。
マル文字が、まだ誕生も普及もしていなかった70年に、熱海からグァムに引っ越した優は
(マル文字の誕生は74年、普及は78年頃とされている)、マル文字を知らないはずです。
堀ちえみは、近代映画の自筆履歴書で、本名「堀智栄美」のみ正書で、
それ以外はマル文字で書くという、使い分けをしていました。
優も、マル文字全盛期だったので、アイドルデビューのための一環として、
マル文字を練習させられていたのかも知れません。
(Why! なんでこんな変な文字を練習するの? と言っていたかも。)
[69]
名前:名無しさん
:2021/06/25 (金) 19:28:42 No.6425

BOMBの82年9月号の、23ページ目です。
ハワイのマリンブルーの海に入って、くつろいでいる優の姿です。
ちなみに優は、熱海→グァム→ハワイと、海の綺麗な場所で成長しましたが、
泳げないそうです。水泳大会では、あの伊代ちゃんに負けた。と言っていました。
[70]
名前:名無しさん
:2021/06/29 (火) 17:22:16 No.6445

カラーグラビアとモノクロの記事を、2枚ずつ交互に載せて行きます。
これは、BOMBの83年3月号の、1ページ目です。
3rdシングル「アンサーソングは哀愁」、4thシングル「あの頃にもう一度」と、
マイナー調のバラードが続いた時期なので、落ち着いたグラビアが多いです。
[71]
名前:名無しさん
:2021/06/29 (火) 17:27:09 No.6446

BOMBの83年3月号の、2ページ目です。
ハワイ育ちの優は、マイナー調のバラードより、アップテンポの明るい曲の方が好きなので、
この頃は、フラストレーションが溜まっていたのかも知れません。
せめてポーズだけでも、アクティブな感じを狙っていたのでしょう。
[72]
名前:名無しさん
:2021/07/03 (土) 20:51:03 No.6471

BOMBの82年9月号の、24ページ目です。
優のホノルル・ガイドです。
優が住んでいたBのマンションは、いかにも見晴らしが良さそうです。
[73]
名前:名無しさん
:2021/07/03 (土) 21:13:36 No.6472

BOMBの82年9月号の、25ページ目です。
83年には、英会話の書籍を出版し、88年には「早見優のアメリカンキッズ」という、
テレビで英会話番組を始めた早見優ですが、デビューした頃から、
「ONE POINT ENGLISH」をしていた事が、判ります。(左下)
[74]
名前:名無しさん
:2021/07/07 (水) 21:44:09 No.6495

BOMBの83年3月号の、3ページ目です。
ハワイ育ちで、アメリカンでオープンな性格の優が、書いている文章には見えません。
事務所か、BOMBが用意した文章でしょう。
[75]
名前:名無しさん
:2021/07/07 (水) 22:00:27 No.6496

BOMBの83年3月号の、4ページ目です。
デビュー当時、周りのアイドルたちが、いつも可愛い笑顔を作っているのに、
なかなか笑顔が作れなくて、よくマネージャーに注意されたそうです。
もともと優の顔は、デフォルトが怒った顔に見えるので、普通にしていても、
マネージャーから「怒っているの?」と、言われていました。
そういう目で見ると、このスレに載せた写真の表情も、笑顔を除けば、
怒っているようにも見えます。このカットも、口元に微笑みを持たせる事で、
ようやく普通の表情に見える感じです。
[76]
名前:名無しさん
:2021/07/11 (日) 23:57:58 No.6525

BOMBの82年9月号の、26ページ目です。
宮川泰は、70年代後半に、「宇宙戦艦ヤマト」の音楽監督として知っていましたが、
もともとは、日本初の和製ポップスと言われている、ザ・ピーナッツの「ふりむかないで」の
作曲家として有名でした。(この頃は、もちろん知らない。)
82年当時は、FMの邦楽ベストテン番組の解説をしていて、河合奈保子の「愛をください」の
歌唱を褒めた後、「夏のヒロイン」について、「せっかく歌唱力がついてきたのに、
何故、アイドルっぽい曲を歌うんだ。」と、辛口の批評をしていました。
河合奈保子ですら辛口なので、新人の優の歌唱については、ケチョンケチョンに書いてあります。
「LOVE LIGHT」は、初期の優のシングル4曲の中では、一番好きでした。
優自身も、気にいっているようですが、ベストテンの壁は厚く、オリコン38位止まりでした。
当時、いい曲なのに何故売れないんだろう。と思っていました。
[77]
名前:名無しさん
:2021/07/12 (月) 01:09:07 No.6526

BOMBの82年9月号の、27ページ目です。
三浦徳子は、同じ事務所の先輩の松田聖子のシングルの作詞を、連続5作行い、
初期の2枚のアルバムの全作詞も行う、聖子のメインライターであり、
聖子の初期の成功の立役者の一人だったので、優の作詞をするようになったのでしょう。
(「LOVE LIGHT」は訳詞ですが、「夏色のナンシー」からの4曲は作詞です。)
三浦徳子は、英語があまり得意ではなかったのか、「LOVE LIGHT」の英語詞は他の人が行い、
「夏色のナンシー」の、コーラス部分の英語も間違いがあったとの事です。
ファンの人から、英語が得意なのだから、間違った英語詞は直すように言われていた優は、
コーラス部分の英語の間違いを直し、三浦徳子の了承を得たそうです。
「LOVE LIGHT」の作曲のJimmy Jacksonは、日本人だそうです。筒美京平は、かつて
ジャック・ダイアモンドとDr.ドラゴン名義で、作曲・編曲も行っているので、もしかして?
新曲発表会では、優のヒョーキンさが受けていたそうです。今でもテレビで活躍していますが、
それは、このヒョーキンさが役立っているからかも知れません。
「意外に女の子(のファン)も多かったようだ。」82年当時、キャピキャピしたアイドルが
多かった中、落ち着いた雰囲気が女の子に受けていたらしいです。
(後に、ファンの女性が語っていました。)
[78]
名前:名無しさん
:2021/07/15 (木) 23:08:56 No.6553

BOMBの83年4月号の、1ページ目です。
3月号からうって変わって、夏を先取りするグラビアになっています。
4月号は、3月9日発売なので、4月1日リリースの「夏色のナンシー」を、
意識して、夏を先取りしているのでしょう。
[79]
名前:名無しさん
:2021/07/15 (木) 23:18:05 No.6554

BOMBの83年4月号の、2〜3ページ目です。
やっぱり優には、夏が似合います。ハワイから来た事と、
小麦色に焼けた肌から、そう見えるのでしょう。
ちなみに、CSの歌謡ポップスチャンネルでやっている「音楽クエスト」という番組では、
次回(多分8月)の放送で、夏の歌特集をしますが、優が杉山清貴と一緒に、
夏歌について語る番組になるはずです。
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名前:名無しさん
:2021/07/19 (月) 18:52:17 No.6581

BOMBの82年9月号の、28ページ目です。
アイドル恒例のボディチェックのコーナーです。
アイドルの身長は、155〜160cmが主流だった70〜80年代。
優は164cmと、やや高めです。身長167cmの浅野ゆう子・片平なぎさや、
身長175cmもある中島はるみが、アイドルとしては成功しなかったので、
優の164cmが、売れるアイドルの身長の上限だったかも知れません。
プロポーションは自信なし。バストの80cmは胸囲じゃないかな。と正直に書いてあります。
優は、バストはなくても、ヒップは結構あって、下半身が発達している印象があります。
(主演映画「キッズ」での、着替えシーンで確認。)
「冬になるとカゼを引きやすい」のは、やはり常夏のハワイで育ったからでしょう。
結婚してからは、旦那が風邪をひくと、家族にうつらないようにホテルに缶詰めにされるそうです。
優は風邪がうつりやすいからでしょうが、もう少し優しくして欲しいと、旦那が言っていました。